子供が保育園に通いはじめ、それまで考えていなかった住宅購入が頭によぎり始めた夫婦。たまたま見つけたのは、娘の保育園の目の前にある築18年の中古物件でした。迎えた内見当日、はじめて家の内部に入った夫婦の目には何が映ったのでしょうか。
お目当ての中古物件を内見
「こんにちは。○○○○不動産の○○です」
内見当日、現地で筆者と妻を待っていたのは、にこやかな表情を浮かべる担当者のIさんでした。
やや下がり気味の眉や優しげな目がどこか福の神を連想させるIさんは、40代後半といったところでしょうか。大手ゼネコン系列の不動産会社の社名が入った名刺を差し出すと、「家の方がいらっしゃいますので、さっそく見せていただきましょうか」と、携帯電話を耳に当てました。
「どうも、○○です。内見のお客様、見えました」
電話を終えたIさんは「ご自由にどうぞということです」と笑顔を見せると、階段を5段ほど上った先のドアを開いてくれました。促されるまま、筆者と妻は中にお邪魔しました。
入ってみた玄関ホールはまずまずの広さ。左側には下駄箱やクロゼット、右側にもクロゼットがあります。なかなか収納力のある玄関です。
「まだお住まいなのでけっこう生活感があります」
Iさんの言葉通り、床の上には段ボール箱やバッグなどが置かれています。三和土には女性用の靴の他、若い男性が履くスニーカーなどがあります。もともと白かったであろう壁は経年劣化やその他の汚れで黒ずんでいます。
「右手は洗面所とお風呂ですね。隣はトイレです」
言いながら、Iさんは奥へと入って行きます。筆者と妻も洗面所やトイレをちらっと覗いてあとにつづきます。洗面所、トイレとも玄関同様、築20年近い物件らしく汚れていて暗い印象です。なるほど。リフォームが必要というのがよくわかります。
「こんにちは」と挨拶しながら奥のLDK部分へと入ってみました。キッチンで水仕事をしていた家の奥様が「どうぞ」と応対してくれました。
「LDKは全部で14帖くらいですね」
Iさんの説明に「ええ」と頷きながら、筆者と妻は入口から動くことができないでいました。
中古物件は「現状」というよりも「惨状」
目に入ってきたのは、荒れ果てた家の現状でした。
壁は、いったいどうやったらこんなふうに汚せるのかなと思えるほど黒く汚れ、一部ははげています。フローリングの床にはリビングだというのになぜか布団が敷いてあります。引っ越しの準備中らしく、ここもやはり段ボール箱や物が散乱しています。正直、これ以上、奥へと足を踏み入れるのは気が引けます。
北側と南側にある窓には昼だというのにカーテンがかけられ、照明はといえば天井の中央部にもうすぐ寿命が尽きるであろう薄暗い蛍光灯がひとつ灯っているだけ。他に壁や天井にいくつか間接照明がありますが、それらは使っていない様子です。
壁とカウンターで区切られたキッチンも、油汚れや溢れかえった物でお世辞にもきれいとは言えません。
部屋が荒れているのは、引っ越しの準備中だからというだけではなさそうです。きっと普段からあまり掃除や整頓をしてこなかったであろうことが窺えます。現状というよりも「惨状」と言った方がふさわしい空間です。
〈予想はしていたけど、やっぱすごいな……〉
隣にいる妻も同じことを考えているのがわかりました。
リビング部分は11帖ほど。十分といえば十分ですが、狭く見えてしまいます。そう見えるのは、いま借りている借家のリビングが17帖もあるからなのですが、閉まっているカーテンがその印象を助長しているのに気がつきました。
「そっちが庭ですか」
筆者が南側の窓を指差すと、奥様が「よかったらカーテン開けてくださってかまいませんよ」と言いました。Iさんがカーテンを開けてくれました。
「窓、大きいですね」
ここでやっと妻が弾んだ声をあげました。「本当だ」と筆者も声にしました。庭に面した二枚の窓は、高さはもとより横幅がかなりあって、この日は曇りでしたが、採光は十分といった感じです。
「庭側の窓は大きいですね。普通の家よりもサイズがあると思います」
Iさんが言うと「庭は狭いですけどね」と奥様が付け足しました。窓の向こうに目をやると、確かに庭はさほど広くなさそうです。縁側から1メートルほど先はフェンスになっていて、その向こうは通路を挟んで施設風の建物が建っています。
「お向かいは、介護施設かなんかですか?」
妻が訊くと「高齢者の介護施設でしたよね」とIさんが奥様に確かめました。
「けっこう出入りがあって声がしますよ」
奥様が教えてくれました。
「私はいつもカーテン閉めちゃっているんですけどね」
確かに、カーテンを閉めておかないと外から中が丸見えといった感じです。
「でも、レースのカーテンくらいでも、だいぶ見えなくなりますよね」
筆者が言うとIさんが「そうですね」と頷きました。
中古物件、気になる冬の寒さは?
せっかく売主さんがいるのだから、といくつか質問してみました。「冬って寒いですか?」
「私はエアコンが嫌いなんで、冬はホットカーペットだけで頑張っています」
言われてみれば、確かに部屋には暖房がかかっていません。寒々とした印象は室温が低いせいもあるのだと気がつきました。
「ガスは都市ガスですか、プロパンですか」
「プロパンですね。でも、ご近所はけっこう都市ガスが入っているみたいですよ」
ここは筆者にとっては重要なポイントでした。いま住んでいる家はプロパンガスで、冬はガス代がやたらとかかることに悩んでいたからです。
「都市ガスに変えるって、できますよね?」
Iさんに質問してみました。
「変えられますけど、給湯器なんかも都市ガス用に変えなくちゃいけないから、その分、お金はかかりますね」
「自分でも調べてみますね」
宿題がひとつできました。
「ホットカーペットだけで、なんとかなっていますか?」
もう一度、寒さについて聞いてみました。いまの家は山の上にあってとにかく寒いのです。現状、毎月2万か3万かかっている暖房費を節約するために、そして「上がりっぱなし」という妻の血圧を下げるためにも、いまよりも寒くない家であることはマストの条件でした。
「冬はいつも窓のシャッターも閉めているんで、どうにかなっています。まあ、寒かったらエコアンつければいいと思いますよ」
奥様の答から、少なくとも寒さについてはなんとかなりそうだな、という手応えを感じました。
それにしても、常日頃から窓のシャッターを閉じているとは。奥様はごく普通の主婦の方に見えますが、リビングの床に布団を敷いているところといい、なんだかけっこう閉じた生活を送っていらっしゃるようでした。
他にも奥様は「あと、インターフォンが壊れています」と教えてくれました。
「給湯器だけじゃなくてインターフォンも交換かな」
筆者が呟くと、奥様は「これ、使っていないんですけど、よかったら残しておくから使ってください」と、箱に入った未使用のインターフォンを出してみせました。
「私、詳しくないからよくわかんないけど、無線式で使えるらしいです」
インターフォン代はかからずに済みそうです。
どう考えてもドン引きな中古物件
2階にも上がらせていただきました。
吹き抜けの階段を上がりながら、Iさんが「建てたのは地元の工務店ですね」と教えてくれました。
「無理すれば4LDKにできたけど、3LDKにしたって話です」
汚ればかりが目につく家ですが、注文住宅らしく、造りはしっかりしているらしい、ということはなんとなくわかりました。
階段を上ると左(南側)が5帖の洋室と6帖の和室、それにトイレと洗面台。右(北側)には8帖の和室がありました。まずは左側の洋室と和室を覗いてみます。どちらもやはり物が散らかっています。ただ、家財の半分以上はすでに持ち出しているようでリビングよりはすっきりして見えます。
壁は汚れているけれど、1階の壁があまりに黒ずんでいたためか、それほどひどい印象ではありません。
団地サイスで5帖ほどの洋室にはベッドがありました。女性用の小物なども見えます。
「ここはお嬢さんの部屋ですね」
Iさんの説明に筆者と妻は頷きました。
「ポン子(娘/仮名)が使うとしたら、やっぱりこの部屋かな」と妻が言いました。
「そうなりそうだね」
隣の和室との間にはクロゼットがあります。扉は開いていて、奥様のものらしきコート類などがかかっていました。
和室もまた、団地サイズの狭い6帖でした。この部屋も洋室側にクロゼットがついています。部屋の面積を犠牲にして収納を確保したのが見て取れます。
和室と洋室の窓の外はベランダ。とは言っても、テーブルやガーデンチェアを置いてくつろぐようなスペースはなく、エアコンの室外機を置くのが関の山という広さのベランダです。その向こうは隣の介護施設の屋根があります。
トイレと洗面台は、1階のものよりは汚れていませんでした。
「1階は交換が必要ですけど、こっちはそのままでいいんじゃないですかね。Iさんの言うとおり、どちらもそのまま使えそうです。
北側の洋室にもお邪魔しました。ここは8帖と言いますが、やはり団地サイズの8帖です。それでも他の部屋に比べれば広く、南側と東側の2面にある窓が開放感を感じさせてくれます。とくに北側の窓は出窓になっていて、汚れて曇っている窓の向こうに保育園の緑や園舎が見えます。
妻と2人、事前に間取り図を見たときに「パパの仕事部屋にするならここだろう」と言い合っていたので、筆者は素早く家具の配置を考えました。
机を置くとしたら出窓の前。3つある本棚は西側の壁際に2つ。それとドアの横の南側の壁に1つ。プリンターは机の横……なんとかはなりそうです。
この部屋には1帖半ほどのウォークインクロゼットがついています。見ると、箪笥くらいは収まりそうです。他にも衣装ケースなどを詰め込めそうでした。
「この部屋は息子さんが使っていたそうです」
Iさんが苦笑いしながら教えてくれました。その目は東側の壁に向いています。そこには大きな穴が空いていました。
「穴が空いていますけど、壁紙変えるときに塞げばいいと思います」
「男の子の部屋ですね」
筆者は苦笑いです。妻も笑っていました。
「うちなんか、もっとひどかったよ。おにいちゃんが暴れて」
1階に戻ってお風呂や洗面所、トイレ、キッチンを見せていただきました。交換が必要というトイレは、なんだか廃墟のそれでした。
これにてひととおりの内見が終了しました。
全体の印象は「狭い」。そして「汚い」です。
普通に考えて、ドン引き物件であることは間違いなしです。
中古物件の壊れたトイレ。リフォームは絶対条件
奥様に挨拶して外に出ました。カースペースを見せてもらいました。
「いちおう普通車が入るスペースです」
横幅はそれほどないけれど、Iさんの言うように、その気になれば大きなミニバンでもとめられそうです。
奥行きはかなりあって、多少出し入れは面倒になるかもしれないけれど、クルマの後ろにオートバイや自転車が置けます。我が家の軽自動車や電動アシスト付自転車くらいならなんの問題もないでしょう。
気になるのは入口付近の敷地内にある電柱とエアコンの室外機です。電柱はこのままとして、室外機はできればもう少し邪魔にならないところに置きたいものです。
「どうでしょうか。買う買わないはともかく、ローンのお見積もりだけし直しましたので、もう一度ご説明させていただいてもよろしいでしょうか」
Iさんが立ったまま鞄から書類を出しました。
「まあ、こういうお宅ですから、うちの方では1980万というお値段をつけさせていただいたんですけど……」
そう言いながら、Iさんが広げた見積書を覗いてみると、すぐに気がつきました。
「あれ。売値が1900万円になっていますね?」
「ええ、内見が入ったってお伝えしたら、売主さんの方で下げてくださったんです」
「本当に?」と妻と顔を見合わせました。
「お願いしてもいないのに、ありがたい話ですね」
「まあ、ご覧になってわかったと思いますけど、ああいう現況ですので」
「買うとしたら、リフォームは絶対ですね」
「あのまま使うという方は、まずいないでしょうね」
「まあ、そうでしょうね……」
ローンの見積もりを見てみると、最初の5年は固定金利と変動金利の2つのローンを合わせて毎月8万2000円ほど。5年後からは6万5000円ほどの支払いになるとあります。支払い期間は34年となっていました。34年と聞くと気が遠くなりますが、毎月6万5000円と聞くと逆に気が楽にもなります。
リフォームは水回りの交換や壁紙の張り替えなどで300万円。プロパンガスから都市ガスに交換となると、これにいくらか足すことになりそうです。
Iさんには、夫はフリーランスなので、できれば勤め人である妻の名義でローンを組みたいということは伝えてありました。
「たぶん奥様で大丈夫だと思います」
その一言から、ローンが組めるかどうかの心配はあまりしなくてよさそうだということがわかりました。
「詳しく知りたければ、こちらから電話しておきますので、住宅ローンの金融機関に仮審査をお願いしてみるといいですよ」
Iさんはベテランの営業マンらしく、強引な勧め方はいっさいせずに話を終えました。
マクドナルドで夫婦会議
Iさんと別れた筆者と妻は近くにある『マクドナルド』で内見感想会を開くこととしました。
運ばれてきたマックフライポテトをかじりながら「どうだった?」と妻が訊いてきました。筆者は正直に答えました。
「見ていて、ときめきはまったくなかった」
「私も」
夫婦で頷きあいました。それはそうでしょう。あのボロ物件を見てときめく人がいたとしたら、よほどの変わり者です。
これがぴかぴかの新築物件だったら、「わあ」と興奮して買いたくなるのが自然だけど、今回の物件の場合は逆の効果しか持たらさない、マイナス要素であれば事欠かないといったシロモノです。
「あそこで死ぬのは想像できなかった」
妻の言葉に、筆者も「うん」と顎を上下させました。
「でも」と筆者はつづけました。
「ときめきもわくわくもまったくなかったけど、買わないという理由も見つからなかった」
「私もそう思った」
「本当にときめくものはなにひとつない物件だけど、すべてが現実的で便利な家だと思う」
「うちが必要としている条件をすべて満たしているよね」
このバカ夫婦は何を言い出しているのでしょう。ポテトの油で脳が溶けてしまったのでしょうか。
しかし、筆者と妻の目に映ったボロ物件は、けっして悪いものではなかったのです。
「場所はいまの生活で見れば最高だし、壁や水回りなんかリフォームすれば新築みたいにきれいになるよ。部屋を見ていて、どの部屋をどうすればいいかも瞼に浮かんだ」
ボロボロのリビングや各部屋を見ながら、筆者の頭にはそこを自分たちが使ったときの姿が浮かんでいました。妻もまた「ポン子の部屋、ベッドと机をここに置けばいいやと思っちゃった」と言います。
「狭く見えたけど、それはいまの家が広すぎるからだよな」
「92平米なら、他の家とあんまり変わらないよね」
内見した物件の両隣には同じくらいのサイズの家々が建っていました。どれも床面積はそう変わりないはずです。豪邸にはほど遠いけれど狭小住宅に比べれば広い、つまり普通の戸建て住宅です。
「私はあれくらいの家がちょうどいいと思う。あまり広くて居心地が良かったりしたら、ポン子が出ていかなくなるよ」
我が家は夫婦が高齢ということもあって子供は娘だけで終わりそうです。その一人娘には大人になったら自立してほしいというのが親の願いです。妻の言うように、居心地が良すぎる家だったら娘はいつまでもそこから出ようとしなくなるでしょう。
「とにかくポン子が大学出るまでの20年間、あそこに住めればいいんじゃないかな。そのあとは売ってどこかに引っ越してもいいし」
妻はもう住む気でいます。
「このローン代だったらどうにかなるか。頑張って変動金利の分だけは先払いしちゃうとかできればいいね」
筆者も前向きな気持ちでした。
「どうする。いまIさんに電話して買いますって言う?」
「まあまあ。一晩くらいは置こうよ。さがしてみて、万が一、もっといい物件あったらどうする?」
「じゃ、さがしてみよう」
妻がスマホで検索を始めました。同じ町内や近隣で出てくる物件に、あれ以上安いものはありません。巷には「オリンピッグ後は家が安くなる」という噂がありますが、それを気にしていたら買い逃してしまいそうです。
こんなふうに、注文したポテトやハンバーガーを食べ終えた頃には夫婦の意見は「買う」で一致していました。
買うならこれだと思っていた中古住宅+リノベーション
妻はこうも言いました。
「リフォームするっておもしろそうじゃない」
「予算的に最低限のことしかできないけど、工夫すればかなりきれいになるんじゃないかな」
筆者もリフォームが楽しみでした。
文筆業者である筆者は、これまで自分自身では住宅購入を考えたことはなかったのですが、仕事を通じて、リノベーションをしている業者や変わり種物件を扱っている不動産業者の方とお話をする(そして記事に書く)機会が何回かありました。
仕事を通じて見せてもらった事例は、どれも素敵にリノベーションされた物件でした。そういう経験があったからか、いつか自分が家を買うときがきたら、中古物件をリノベーションしたいなと考えていたのです。
今回は、残念ながら予算不足とあってリノベーションと言えるほど大胆な工事はできそうにありません。それでもボロボロのドン引き物件は「リフォーム」という楽しみを与えてくれていたのでした。
心の中では9割方「買う」と決定。けれど、まだIさんに正式なお返事はしないでおくこととしました。まずはローン会社で仮審査をしてもらって、ローンが組めるかどうかを確かめる必要があったからです。
支払いを担当する夫としては、購入がいつになるのか、ローンがいつ始まるのかも気になっていました。リフォームに引っ越しとなるとかなりの出費となります。ちゃんとそれが賄えるのかどうか、時期によっては綱渡りの日々となりそうだったのです。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線及び最新トレンドの記事を中心に執筆。