中古物件の内見からローンの仮審査へ。トントン拍子で話が進みすぎてしまい、「気持ちがついていけていない」と感じた夫婦。ここはいったん立ち止まって冷静に考えてみようと話しあった結果、住宅購入は白紙撤回とすることに。しかし、それで終わりではありませんでした。
中古物件、買うか、買わないか
「白紙撤回」と決めてから3日。販売会社の担当者Iさんから妻に電話が入りました。本当なら「買わない」と決めた時点で即こちらから電話をすべきところでしたが、まごまごしているうちに時間が過ぎ、そうとは知らないIさんは自分の仕事を進めていたのです。
電話に出た妻にIさんは何か説明しているようで、妻はしきりに「はい」「はい」と頷いています。そしてこちらの考えを伝えることなく「主人と話して、こちらからお電話いたします」と電話を終えました。
「Iさん、なんだって?」
「リフォームの見積もりを出したから、もう一度現地で詳細を説明したいって」
どうやらIさんはリフォーム業者さんに見積もりをお願いしてくれていたようです。ローン会社とも連絡をとって、こちらが仮審査に通ったことも知っているようでした。
「どうしようか……」
2人で顔を見合わせました。「白紙撤回」に決めたとはいえ、実のところ2人ともまだ心は揺れていました。買わなくていいし、買えなくてもいいけれど、買えるものなら買いたい。なんとも優柔不断ですが、この時点では「買わない」と「買いたい」のどちらもが正直な気持ちでした。
優柔不断な2人が出した答は、「とりあえず話だけでも聞きに行こうか」でした。
聞けば、売主さん一家はすでに退去しているそうです。一度、空っぽになった家を見てみたいという気持ちもありました。
それともうひとつ、筆者には確認したいことがありました。
「Iさんに会ったら、スケジュール的なことを聞いてみよう。契約や引き渡しがいつかとか、ローンが始まるのはいつかとか」
そう口にする筆者の本音は「できるだけ引き延ばしたい」でした。
もし買うとなったら、土地と家本体はローンで、その他のリフォーム費用や引っ越し費用は現金で、というのが夫婦の考えでした。ただし、現時点の貯金額でリフォーム代と引っ越し代を払うと、残高はゼロに近くなってしまいます。場合によっては足が出かねません。さすがにそれでは不安なので、できれば出費のタイミングを3ヶ月以上は先延ばしして、その間にいくらかでも手持ちのお金を増やしておきたかったのです。
いまは3月です。3ヶ月先といえば6月。リフォームや引っ越しが6月ならば、どうにか買える。4月や5月だとけっこう厳しい。状況を見るとこんな感じでした。もちろん、これだってかなり甘い見通しです。
始まったばかりのコロナ禍はいつまでつづくかわかりません。いっぽうで筆者は、それにともなって仕事が減り始めていることも肌で感じていました。これが一過性のものなのか、それとも長期に渡るものなのか、見当もつきません。迷って優柔不断になるのもやむなし。きっと誰だってそうでしょう。
こんなときに限って町内会の理事に
当たり前のことながら、住宅購入は人生の重大事です。夫婦の間で話し合う時間はいくらあっても足りないくらいです。
とはいえ、そこは子育て中の共稼ぎ夫婦。本筋と関係ないのであまり詳しくは書きませんが、内見やローン会社で仮審査を受けている間にも、娘の具合が悪くなって病院を受診したり(コロナでなく気管支炎)、経済的に楽でないくせになぜか分量だけはたっぷりある仕事に追われていたりと、毎日は仕事と家事と育児でひたすら忙しく、かつ慌ただしく、妻も筆者も夫婦で話し合うどころか自分自身と向き合うことすらできない状況でした。
こうなってくると、自分たちの行いが正しいのかどうかもよくわからなくなってきます。
しまいには「そもそもどうして家を買うなんて話になったんだっけ?」などと首をかしげる始末です。そして娘の顔を見て思い出すのです。そうだ、この子のためだ。この子が成長するまで一緒に暮らしていくために買うんだ、と。
Iさんの電話から2日後。日曜日の朝、「ピンポン♪」とインターフォンが鳴りました。玄関のドアを開けるとご近所のKさんが立っていました。
「理事の引き継ぎをしたいんですけど、いつがいいですか?」
Kさんに訊かれた筆者は「ゲッ!」とのけぞりそうになりました。
「町内会のですね。妻のスケジュールを確認してお返事します」
答える筆者は、内心では「まずい」と頭を抱えていました。
暦は弥生。年度がわりのこの時期は町内会の役員が交代します。そしてこの年は我が家に「理事」がまわってくるのです。理事というと偉そうだけど、実質は小間使い兼集金係です。毎月の配布物を町内の会員宅に配ったり、会費を徴収したり、行事があればその手伝いをするというのが仕事です。
「じゃ、電話くださーい」と愛想良く去って行くKさんの背中を見ながら、筆者は「まさか引っ越すかもしれないなんて言えない」と顔を青くしていました。
もし言うとしたら……とそのまま視線を向けたのは、斜め前にある大家さん宅でした。
〈Kさんに言う前に、大家さんに言わないとな〉
いま借りている借家の大家さんはとても良い方です。家の設備が故障したり、台風でフェンスが倒れたりと、困ったことがあればすぐに対処してくれるし、どこかに出かけるたびにお土産を買ってきてくれたりと、この2年間で頂戴した親切や好意は両手の指では足りないほどです。
賃貸契約の更新をしたのはつい一ヶ月半ほど前のこと。よもや大家さんも更新したばかりの店子が引っ越すとは考えていないはずです。お人好しかもしれませんが、大家さんのことを考えると感じなくてもいい良心の呵責を感じてしまいます。
Kさんの訪問でお尻に火がついた感じでした。
「Iさんに電話しよう」と、台所にいた妻に言いました。
「なんて言う?」
「購入を前向きに検討している、でいいんじゃない?」
「いいの。それで?」
「うん」
頷く筆者は、テレビを観ている娘を見ていました。
「Iさんと会うとき、ポン子(娘/仮名)も連れて行こう。ポン子ちゃんが家を見てどんな反応をするか。それも見て決めるといいかも」「そうだね」
妻がさっそくIさんに電話をしました。筆者がしてもいいのですが、最初に問い合わせをしたのは妻だったということもあって、こちら側の窓口はなんとなく妻になっていたのです。
妻は不動産屋さんらしく日曜日も出勤しているIさんに「購入の方向でいこうと思います」と伝えました。なんだか「前向きに検討する」とは言い方が微妙に違いますが、「まあいいや」という感じでした。
午後4時に現地で会うということになって電話は終了。そこで筆者は伝え忘れたことがあるこを思い出し、Iさんにもう一度電話をかけました。
「購入は前向きに検討したいんですけど、そのうえでちょっとご相談というか、お聞きしたいことがあります」
「承知いたしました。では4時にお待ちしております」
ご相談、の内容までは訊かずにIさんは受話器を置きました。
「ご相談ってなんなの?」
かわりに尋ねてきたのは妻でした。
「いや、もし買ったらローンの開始時期とかいつになるのか知りたいじゃない。それを聞きたかったんだ」
「あ、それね。いま聞けばよかったんじゃない?」
「と思ったんだけど、忙しそうだったからあとにしたよ」
こんなことならローン会社で仮審査の手続きをするときに担当のSさんに聞いておくべきだったかも。そうも思いましたが後の祭りです。
リフォームの見積もりは310万円
約束の4時に現地に行くと、Iさんが家の前で待ってくれていました。
売主さんはすでに引っ越したとかで、先日の内見のときにあった家財はほぼなくなっています。この日は晴天ということもあって、入ってみたLDKは思っていた以上に明るくいい感じです。
「やっぱり窓大きいですね」
頷きあっているパパとママの足元で、娘も楽しそうな顔をしています。
「で、リフォームなんですけれど」
Iさんが業者さんから来たというリフォームの見積もり書を片手に説明を始めました。内容はざっと以下のような感じです。
- 壁:1階および2階とも全室張り替え
- 水回り:キッチン、浴室、給湯器は取り替え。トイレ、洗面台は1階のみ取り替え
- 床:1階トイレと脱衣所は張り替え
主たるリフォームは「壁」と「水回り」。確かに、現状、いちばん汚れているのは壁と水回りです。1階のトイレなどは汚れているどころか故障していて使えません。
むろん、気になるところは他にもあります。前回の内見では気になりませんでしたが、リビングの窓のペアガラスはよく見ると隅にヒビが入っています。売主さんはそのまま使っていたけれど、幼い子がいる我が家としては交換したいところです。とはいえ、かなり大きなペアガラスだけに費用は相当かかりそうです。
インターフォンはというと、これも故障していますが、前回、売主さんが「これでよければ使ってください」と残していってくれた未使用のものがあるので、それを使えばとりあえずは問題が解決しそうです。
他にも筆者には気になっているものがありました。ガスです。現状はLPガスですが、できれば都市ガスに交換したいというのが筆者の希望です。Iさんはこれについては「東京ガスに問い合わせ中です」と教えてくれました。
他には雨漏りの検査。もしやるとなると検査費用は5万円くらいだといいます。これは「目視」で済ませることにしました。「検査」は「検査」であって修繕でなない。雨漏りしたら、どのみち修繕しなければならないのです。
あれこれやで算出されたリフォームの見積もりは、全部で310万円ほどでした。
思わぬコロナの影響
「ただひとつ問題があって」とIさんが顔を曇らせました。なんだろうと待っていると、Iさんの口から「コロナの影響で」という言葉が出てきました。
「浴室の暖房乾燥機とかトイレなんかの入荷が遅れているんです。それでけっこう止まっちゃっている工事が多いようでして」
急いでいる人にとっては一大事かもしれないトピックでしたが、筆者にとってはこれは歓迎すべき話でした。
「ということは、買ったとしてもすぐには工事に入れないということですか」
「そうなりますね。もちろん、できるところから始めるという方法もあるかもしれませんが、それだと、結局、入居も遅れてしまうんですよね」
申し訳なさそうな顔をするIさんに、筆者は言いました。
「いや、僕たちに限っていえば、別に急いでいるわけでもなんでもないし、むしろ入居はゆっくりでいいんですけどね」
ちょうどいい方向に話が向いてきたところで「それで」と話題を変えてみました。
「お聞きしたいことなんですけど」
その一言に、心なしかIさんが身構えるように見えました。錯覚ではなかったようです。
「お値引きですか?」
尋ね返されたこちらは「えっ?」と声をあげていました。
「お値引き……いやいやいや」
筆者はぶんぶんと首を振って言いました。
「じゃなくて、ですね。もしいま購入したらリフォームがいつになるかとか、ローンの開始時期がいつになるとか、それをちょっと聞きたかったんです」
「あ、そうだったんですか」
Iさんの顔がほころびました。
「いやあ、私はてっきりお値段のことかとおもっていました」
「違うんです。最初にちゃんと言えばよかったです。すみません」
あやまりながら、筆者は自分たち夫婦のバカ正直さに呆れていました。家を買おうというのに、世間知らずの間抜け夫婦は値引き交渉ひとつしていなかった。そもそもそんなことはちらりとも頭に浮かんでいなかったのです。それというのも、内見時にすでに売主さんが80万円も値を下げていてくれたからでもあるのですが。
せこい筆者は遅まきながらこう付け足しました。
「もちろん、まだいくらかお安くしていただけるかもしれないというのならお願いしたい気持ちはあるんですけど」
「じゃあ、売主さんに聞いてみますね。頑張ればあと30万円くらいは交渉可能かなと思いますよ」
Iさんが言うには、実はこの家はローンがまだあと1870万円残っているというのです。売主さんとしては、儲けはいらないからとにかく完済したいのだといいます。
「たいへんなのはお互い様なんですね」
現在の売値は1900万円。そこから1870万円を引いたら30万円。売り主さんとしても、これ以上は難しいところでしょう。
「でも、まだ下げてくださるかもしれませんよ」と答えるIさんはそれまでしなかった話をしてくれました。
「このお宅は1月から売りに出していたんです。いままでも内見の問い合わせは何組かあったんですけど、居住中と聞いたらほとんどお客さんが連絡をくださらなくなってしまって……」
「そうだったんですか」
「内見した人たちもいるにはいたんです。でもまあ、中を見たらみなさん引かれてしまいましてね」
さもありなんです。やはり誰が見てもドン引き物件だったのです。
「Iさんの会社で買い取りはしていないんですか」
「すぐ売りたいならそれがいちばん早いんです。ただそうなると1600万円くらいにしかならなくて、ローンの残債が270万円残ってしまうんです。だからやっぱり個人に売りたいと。それでまあ1980万円というお値段をつけさせていただいたんですけど」
もしIさんの会社で買い取った場合は、500万円ほどかけて大きなリフォームそして、2580万円くらいで売りに出す、というパターンになるそうです。リフォームに2階のトイレや洗面所の取り替え、床の張り替えなども加えたら確かに500万円くらいはしそうです。
「ここは町内でもいちばんいい場所なんです。普通ならもっと早く売れるんですけどね。売主さんには申し訳ないんですが、さすがにちょっと中の見た目が悪すぎて苦戦していたんです」
「コロナのせいっていうのはないんですか?」
「コロナは個人売買には意外と関係ないみたいで、あまりいままでと動きが変わっていないんです。むしろ業者の方が買い控えている感じです」
「へえ」
繰り返しますが、この時点でコロナ禍は始まったばかりでした。まさかこのあとステイホームやテレワークなどの生活スタイルや働き方の変化で郊外への移住希望者が増え、住宅市場が活況を帯びてくる、などとはプロのIさんですら想像はしていないようでした。素人の自分たちに至っては、逆に「コロナなのに家なんか買っていいのかな」と後ろめたさを感じていたほどでした。
購入の流れを確認 「これなら買える」
話を聞いていると、とにかく売主さんは早く売りたいようです。3月という時期も関係しているのかもしれません。
「そうだ。日程でしたね」
こちらの相談を思い出すと、Iさんは紙を広げてペンを走らせました。
「仮にご購入されるとして3月末に契約をするとします。4月、5月はローンの審査などの準備期間と思ってください。6月にリフォームをして7月中旬にお引っ越し。ローン開始は7月からという感じですね」
紙に書かれたスケジュールを見ながら、筆者は「これならなんとかなりそうだな」と頭の中で算段をつけていました。しかもIさんは「さっきもご説明したように、コロナで物が入らなくて少し後ろにずれるかもしれませんが」とも言います。「後ろにずれる」のは大歓迎です。
「どう?」と妻も紙を覗き込んで確かめてきました。
「いけそうだ。これなら買える」
筆者が答えると、Iさんは「でしたら、念のためフラットに適合しているかどうかもう一度確かめてみますね」と誰かに電話を始めました。
娘はというと、さっきから家の中をひとりで探検して遊んでいます。新しい遊び場を気に入ったようです。
電話の済んだIさんが「大丈夫です」と微笑みました。そのIさんに、筆者と妻は「購入という線で」と話を進めてもらうこととしたのでした。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線及び最新トレンドの記事を中心に執筆。