Twitterの買収や「日本はいずれ消滅する」発言で注目を集めているイーロン・マスク氏。総資産は27兆円。世界一のお金持ちはどんな人なのか。YouTubeにアップされた動画を観てみました。
イーロン・マスクに恋をした
数日前の朝のことです。
「あなた、わたし恋をしたわ!」
まだ眠っていた筆者は、妻の弾んだ声に起こされました。
睫毛についた目やにに邪魔されてぼんやりとしか見えない妻は、毎朝、そうであるようにこの日もスマホを片手に何かの記事か動画を見ていました。
夫より就寝時間の早い妻には、毎朝、目が覚めるとスマホで興味や関心のあることを検索して調べては、眠っている夫を起こして身につけたばかりの情報をリピートするという習慣(というか習性)があります。
「また……恋?」
夫というものがありながら、妻はしょっちゅう「恋」をします。相手は有名人だったり、TwitterやYouTubeで見つけた無名の誰かだったり、ときにはクルマなどのモノだったりもします。誰かや何かに夢中になっては、それを「恋」と呼ぶのです。
さて、今回の「恋」のお相手は誰でしょう。筆者が問いただす前に、妻はスマホの画面を夫に向けて言いました。
「イーロン・マスクよ!」
ああ、はいはい、イーロン・マスクさんね、という感じでした。
前の日あたりに、ちょうどマスク氏がTwitterを買収するというニュースが流れたばかりでした。スペースXとか宇宙分野には興味のない妻ですが、Twitterとなると関心があるらしく、今朝はこの世界一の資産家をロックオンしたようでした。
「すごいよ、この人」
こういうとき、いつもそうであるように妻は興奮していました。
「そりゃすごいでしょう」
「子供が6人いるのよ!。そのうち5人は双子と三つ子だよ」
「そっちか」
筆者も詳しくはありませんが、イーロン・マスク氏といえば、電気自動車のテスラに宇宙開発のスペースXと、人類の夢を体現しているような人物です。その人気はスティーブ・ジョブス並。普通に生活しているだけで名前が耳に入ってくるような超有名人です。
「離婚3回くらいしているんだよ。最初の奥さんには毎月1000万円の養育費をあげているんだって」
「ふーん」
「でも奥さんかわいそうだよね。結局、男って成功すると女優に走るんだよね」
妻の口ぶりから、2番目の奥さんが女優だということがわかりました。
「別にすごくないじゃない。ありがちな話じゃないか」
強制的に起こされてトイレに行きたくなった筆者は、話をこのへんで終わらせたくなりました。平和な朝を海の向こうの有名人のスキャンダルで乱されたくはありません。それよりもウクライナ情勢の方が気になります。
「ごめんね、トイレ行くよ」
スマホを見ずに立ち上がった夫に向けてか、自分に向けてか、妻は「マジすごいよ、この人……」と呟くように繰り返しました。妻はイーロン・マスク氏のどこにそんなに惹かれたのでしょうか。
イーロン・マスクの顔
この日、妻は仕事が休みでした。筆者が娘を保育園に送って家に帰ると、今度は43インチのテレビでYouTubeの動画を観ていました。
「まだイーロン・マスク?」
「そうよ。当たり前じゃない」
イーロン・マスク氏のような優れた起業家に興味を持つのは悪くはありません。筆者だって関心がないわけではないのです。ただ、妻と筆者では同じものを見ても興味のベクトルが違ったりするのです。
目下のところ筆者がいちばん関心を寄せているのは彼の語る火星移住計画です。その昔、オートバイで旅をすることが好きだった筆者は「火星の大地をバイクで走れたらなあ」などというバカげたことを夢想していました。妄想が膨らみすぎた挙句、火星は無理だったけれど、かの星と似たような雰囲気の荒野が広がる豪州を数ヶ月間、バイクで走り回ったことなどもありました。
けれど、上には上がいます。イーロン・マスクは地球上でお茶を濁さず本当に火星を目指しているのです。世界にはとんでもない特攻野郎がいたものです。
話を戻します。
仕事部屋に行って机に向かおうかと思っていた筆者に妻は言いました。
「顔があなたにそっくりなのよ」
「え、そうなの?」
恥ずかしながら、このときまで筆者はイーロン・マスク氏の素顔をきちんと認識していませんでした。やっていることに興味はあっても顔に興味はなかったのです。
「見てよ、この動画」
テレビ画面には、なんだか裁判官の法衣みたいなものをまとったイーロン・マスク氏の静止画像が映っていました。
見てみると、なるほど、かする程度には筆者と似た顔立ちをされています。
「そっくりってほどじゃないけど、ちょっとだけ似ているね」
「そうよ。だから惚れたって言ったの」
妻もなかなかいいことを言います。
「人間は顔じゃなくて中身だよ」
「中身もいいんだよ。すぐ終わるからこの動画そのまま観てよ!」
「えー、観なきゃいけないの?」
妻は気に入った映像や記事があると、相手が何をしているかなどということはおかまいなしにそれを見せようとします。筆者はひそかにそれを「感動の押し売り」と呼んでいます。もっとも、いいものを見つけたから誰かに見せたい、共感してもらいたいという気持ちは理解できます。
「本当にすぐ終わるの?」
「5分くらいだから」
妻の言葉を信じて動画を再生してもらいました。
イーロン・マスクの名言動画
再生したのは、10年以上前、イーロン・マスク氏が南カリフォルニア大学の経営大学院の卒業式に招かれた際の講演動画でした。英語のみの元動画にどなたかが日本語の字幕を入れてくれたものです(※以下、紹介するマスク氏の言葉はその字幕を引用させていただいたもの、もしくはそれを元としたものです)。法衣に見えたのは、アメリカの大学の卒業式でよく見かけるガウンのようでした。
動画の中で、イーロン・マスク氏は仕事をするうえで「ためになる話」をしていました。
10年前といえば、マスク氏はすでにスペースXやテスラのCEOになっていました。まさにアメリカン・ドリームを我が手におさめた成功者だけど、スピーチ冒頭、「5、6分で話すのは難しいけれど、なんとかやってみます」と語るその様は少しも偉ぶったところがなく、むしろちょっと照れが入った感じで好感が持てます。
経営大学院で学んだ人たちが聴衆とあって、スピーチの内容も「起業」を強く意識したものでした。
今日は4つのテーマについて話す、と切り出したマスク氏が最初に語ったのはベンチャー起業家の心得でした。
マスク氏:起業している人はとくに、とにかくがむしゃら=スーパーハードに働くことです。
この一言に、自覚はないもののおそらくワーカホリックである筆者は「お、いいこと言うじゃないか」と頷きました。隣で妻がすかさず「でしょ」と言いました。
「がむしゃらに働く」とはどういうことでしょう。マスク氏が例に挙げたのは、自身の体験でした。
マスク氏:私と弟が最初に起業した時は、アパートの代わりに小さなオフィスを借りてカウチで寝ていました。
いいですね。職住一緒で事務所経費を抑えるというのはベンチャーの基本です。
マスク氏:YMCAでシャワーを浴びて、コンピューターはひとつだけだったので、昼間にサイトを編集して夜中にコードを書いていました。
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マスク氏:(1週間のすべての時間)休みはありませんでした。
最高じゃないか。筆者は拍手しました。振り返ってみれば、自分にもそういう独身時代がありました。休みがないくらい仕事があって、無我夢中で働いて、そして、それはけっこう幸せな毎日でした(家族のいるいまも幸せだけど)。
マスク氏:当時付き合っていた彼女も一緒にオフィスで寝ていました。
ここは微妙です。こいつ、貧乏起業家のくせしてリア充だったんかい、と。というか、彼女さんはたいへんだったでしょうね。
本人もここでなにか感じたのか、次の言葉はオーディエンスへの呼びかけに変わりました。
マスク氏:寝ている時間以外はがむしゃらに働いてください。会社を始めるならなおさらです。
そんなのヤだと思う方もいるでしょう。しかし筆者は大賛成です。起業家はこれくらいじゃないといけません。少なくとも、24時間365日馬車馬のごとく働く、くらいの覚悟は持たないとダメです。
マスク氏:簡単な計算です。ほかの人が50時間働いている間に自分は100時間働けば(あなたやあなたの会社は)2倍のことを成し遂げられるはずです。
その通りです!
イーロン・マスクの起業家メソッド
さらにマスク氏は2つめのテーマとして、起業家には素晴らしい仲間が必要だと説きます。
マスク氏:どんな人たちが集まってゴールに向かってどれだけ必死に働くか、それが会社の成功を決めるのです。起業をするなら素晴らしい人を集めてください。
起業家たるもの仲間づくりの上手な陽キャであれといった感じでしょうか。
さらに、10年後、世界一の資産家になる男は3つめのテーマとしてこうつづけます。
マスク氏:そして雑音に惑わされないことです。(中略)Tesla(テスラ)は広告にお金をかけたことがありません。我々が投資するのは研究開発、製造、デザインです。どうすれば最高の車がつくれるか、それにフォーカスすべきです。
至極当然です。
マスク氏:そしてその努力がいいサービスや製品づくりにつながっているかを見極めること。もしそうでないならすぐにやめるべきですから。
起業家は常にしっかりした軸を持つことが大切、そして自分たちを客観的に見ることができる分析力や判断力が必要だと訴えているのです。
最後のテーマは「トレンドを追うべきではないということ」。ここでマスク氏は物理学者の編み出した有益なメソッドについて話します。
マスク氏:物理的アプローチや第一原理の観点から考えてみてください。
なんかいきなり難しい話になってきたみたいだけど、要は、まずはよけいなことは省いてそこにあるものだけを見て考えよう、と言っているのです。
マスク氏:類推ではなく自分の想像できる限界まで突き詰めて考えるんです。そうやって突き詰めて考えていけばそれが本当に理にかなっているのか、ただほかの人たちがそうしているだけなのかを見極めることができる。すべてのことを突き詰めて考えるのは大変だし、努力のいることです。それでも新しいことがしたいならこれが一番の方法です。
突き詰めて考える。自分はどこまでできているかな、と自問してしまいました。うーん、時間に追われ、生活に追われ、なかなかできていない気がします。
4つのテーマを話し終えたマスク氏は、オーディエンスの若者たちに伝えます。
マスク氏:最後にみなさんに伝えたいのが、今こそリスクをとるべきだということです。
出ました。起業家の絶対条件、「リスクをとる」です。
いいぞいいぞ、と拳を握る筆者は、しかし、次のマスク氏の発言にひやりとしました。
マスク氏:みなさんはまだ子供もいないし……
えっ、そんなこと言っていいの。学生だからって子持ちじゃないとは限らないのでは……こんなこと言うとすぐにうるさい人たちが「子供がいるやつは起業しちゃいけないのか」とか噛みついてきちゃうぞ。
筆者が心配したようにマスク氏も「やばっ」と思ったのか、すぐに「えっと、すみません」と発言を訂正しました。するとオーディエンスからも笑い声が。さすがはマーシャルスクールを卒業する優秀なみなさんだけあって、言葉だけで相手の言わんとすることを曲解するような人はいません。
マスク氏が言いたいのはこういうことです。
マスク氏:年を重ねるほど足かせが増えていきます。
ここでいう「足かせ」というのはobligetion(義務や責任)のことです。
マスク氏:家族を持つようになれば自分だけでなく家族にもリスクがかかってしまいます。するとうまくいくかわからないことにチャレンジするのは難しくなる。
これもその通りです。もちろん、チャレンジは何歳だってできるけれど、身軽なうちの方がリスクをとりやすいのは間違いありません。
マスク氏:何かにチャレンジするなら今です。守るべきものができる前にリスクを恐れずにチャレンジしてみてください。後悔のないように。
スピーチはここで終了。会場は拍手に包まれます。動画を再生している我が家のリビングにも筆者の拍手が響きました。
「いいこと言っているじゃないか。気に入ったぞ」
「そうでしょう。だからすごいって言ったんだよ」
イーロン・マスクの言っていることは、当たり前といえば当たり前なのだれど、名にし負う起業家が口にするとやはり説得力が違います。
イーロン・マスクがすごい理由
起業して成功するかどうかは、これを言ったら身も蓋もないかもしれないけれど、結局のところ「運」が深く関係しています。幸運は、みんながみんな得られるわけではありません。幸運は一部の人にしか訪れません。しかし、それは偶然のようでいて必然だと筆者は考えます。
起業家にはいくつかの必須事項がありますが、いちばん大切なのはベクトルと熱量ではないでしょうか。
方向性が間違っていなくて、そこに熱量を注ぎ込めば、事業は必ず成功します。
イーロン・マスクが最初に弟と始めた事業は間違っていませんでした。
彼らの事業はそれに価値を見出した他の企業に高額で買われ、シャワーもないオフィスに寝泊まりしていた青年は20数億円のお金を手にします。そこから次の事業を手がけ、それもまた200億円で売れます。その間、わすか数年です。価値のある製品やサービスを生み出せば、人は数年で大富豪になれるのです。
もちろん、そのためにはスーパーハードに働くことが必要です。
「ところで、具体的になにがすごいの?」
まさか3回の離婚がすごいというわけではあるまい。そう思いながら妻に訊いてみました。
「この人、うちのおにいちゃんと同じ年なんだよ」
「うん」
「人間、みんな同じ時間を生きているのにそれぞれ違うなあって。この人は本気で火星に住んじゃおうとか考えて、本当にやっちゃうんだよね。なんかすごいじゃない」
「そうだね」
「電気自動車も宇宙も、夢を本当に形にしちゃうんだよ。すごいよ」
まったくその通りです。
なにかと物議をかもすイーロン・マスクだけれど、動画で目にした彼はちょっと照れた表情がお茶目な好人物でした。観せてくれた妻に感謝しました。
このあとも妻とはしばらくイーロン談義。
彼の素晴らしさ、成功の秘訣はなんだろうかと話しあいました。
イーロン・マスクのすごいところは、宇宙開発にせよ電気自動車にせよ、彼自身の夢が人類の夢とぴったり重なっているところです。同じような夢を描いている人は少なくないけれど、本気でそれを実現しようとする人は多くはいない。そのなかでいちばんの熱量を持っているのがイーロン・マスクだったのです。
「この人と同時代に生きているのって楽しいね」
宇宙に興味のない、いつもは「男ってどうして宇宙とかに興味があるの?」と首を傾げている妻にこんなことを言わせるのだから、それだけでもイーロン・マスク氏には脱帽です。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneysciencet』では生活者目線及び最新トレンドの記事を中心に執筆。