中古物件のリフォームに向けて、シスッテムキッチン、バス、トイレ、洗面台の選定が終わりました。引き渡しまで1ヶ月を切って、気持ちはそわそわ。ところが、この段階にきて夫婦は意外な大決断をするのでした。
メーカーから水回り一式の見積書が届く
メーカーのショールームを訪ねた翌週の金曜日、見積書が届きました。
封を開いた瞬間、妻が叫びました。
「なにこれ?」
見積書を持ったまま、妻はかたまっています。
「どうしたの?」とそばに寄ってきた筆者に、妻は「こんなんじゃ無理」と言いながら見積書を渡してきました。
「……税込293万?」
そこにあった数字に、筆者も硬直しました。
「なんだこれ。Tさんが出した見積もりだと確か水回りで225万円くらいじゃなかった? こんな金額にはなっていなかったはずだけど」
リフォーム業者のTさんの見積もりはリフォーム全体で400万円です。この金額の範囲内で水回りの交換、洗面所やトイレの床の張り替え、家全体の壁紙交換、都市ガスの工事、リビングの窓ガラス交換などを賄うことになっています。このうちいちばんお金がかかるのは水回りですが、ここで300万円もかかったら、合計400万円では済みません。
「確か、クロスの交換だけで60万か70万だったよね」
頭の中で素早く計算してみました。
「都市ガスと窓ガラスで55万。それと床張り替えが10万か15万か。あとは網戸とカーテンレールと……Tさんのくれた見積書、どこだっけ?」
「いいよ、見積書なんか見なくて」
妻が言いました。Tさんのくれた見積書とメーカーの見積書を見比べたかったのですが、その必要はないと言いたいようです。
「なんかさあ、見積もりのたびに50万円ずつ上がっているような気がしない?」
「……する」
これまでも何度か述べてきたことですが、最初に販売会社のIさんに問い合わせをしたとき、リフォーム費用は300万円でした。それが310万に上がり、リフォームの下見のときには350万となり、Tさんのリフォーム会社を訪ねたときには最大で430万円まで上がりました。430万円ではきつい、という話をして400万円に下がった見積もりなのです。しかも、当初は予定していなかったローンを組んで、やっとという金額なのです。
そこにまた青天の霹靂のようなものが届いてしまいました。これでは430万円どころか450万円くらいはいってしまいそうです。
妻の大英断。「リフォームやめる!」
「このメーカーの見積もりって、本当にこの金額なのかな」
筆者は首をひねっていました。メーカーのショールームで水回り一式を選んだときはリフォーム会社のHさんも一緒でした。Hさんは自分の会社が出した見積もりの範囲内で済むように、最初から商品を絞ってくれていました。メーカー側の担当者のOさんもそのあたりは承知していたはずです。事実、OさんとHさんが勧めてくれた商品はスタンダードなものばかりでした。
「本当にその金額だから、見積もりになっているんでしょう」
そりゃそうだ、と妻の言葉に頷きました。
「でも、この見積もり金額をTさんたちの会社で値引き交渉してくれるんじゃないのかな」
「だとしても失礼だよ。こんなものをいきなり送って来るなんて。こっちが混乱するだけじゃない。配慮が足りないよ」
なにからなにまで、妻の言うとおりです。
もしかするとメーカー側とTさんの会社でなにか行き違いがあったのかもしれないし、ショールーム訪問の際にこの見積書の中身について説明があったのを自分たちが聞き逃していた可能性もあります。それでも、けっして安くはない買物をしようという客に対する扱いとして、これはないような気がしました。
「やめよう」
妻が言いました。
「え?」と見積書から顔を上げた筆者に、妻はつづけました。
「リフォームやめようよ。ローンなんか組むのやめよう。現金で200万円用意して、できることだけやろうよ」
「それ……いいかも」
筆者はこくりと頷きました。
リフォームを頼むのをやめる。
ローンを組まない。
手持ちの現金だけで、できることをやる。
妙案といえば妙案です。なぜいままで思いつかなかったのかという感じです。まるでコロンブスの卵です。
妻はこれまで、リフォーム費用についてはとくに目に見える形で不満はもらさずにきました。筆者も同様です。見積もりのたびに上がっていく金額に対してもやもやした気持ちを抱えてはいましたが、これからお世話になるリフォーム業者さんに対する不満は口にせずにいました。
とはいえ、大切なことが自分たちの思いを置き去りにした不本意な形で進行している、というような実感もありました。
内見して購入を決めた。そこまでは自分たちが主体的に考えて動かしていた物事が、リフォームの段階になったら自分たちの手を離れてしまった。なんとなく相手の言いなりになってずるずると進むうち、いつの間にやら金額は当初の予定より100万円上がってしまった。避けたかったローンを組むことになった。
はっきり言って、おもしろくない。このままではよくない。
夫婦ともに抱いていたもやもや感。それがとうとう態度や言動に表出した感じでした。
「壁なんか自分たちでペンキ塗ればいいんじゃない?」
「そうだね」
「お風呂とキッチンと1階のトイレだけどうにかすればいいんじゃないの」
「んだんだ」
「住めればいいんだよ!」
そう言う妻の目は輝いています。
「じゃあ、TさんとIさんにそう言わなきゃな」
「今日はもう夜だから、明日電話するよ」
「そうしよう」
筆者の声も弾んでいました。
リフォーム工事をキャンセルする
振り返ってみると、筆者と妻が抱えていたもやもや感はいつ生まれたのでしょう。どこかに分岐点があったはずです。
思い当たる出来事はひとつしかありませんでした。2ヶ月近く前、Tさんのリフォーム会社を訪ねたときのことです。
「あの430万円の見積もり。あれがいけなかったね」
筆者が言うと、妻も「あれはなかったよね」と頷きました。
いきなりぽんと出された430万円の見積もり書。
お金に余裕のある人ならなんとも思わなかったかもしれません。けれど、筆者と妻は違いました。
「こっちも予算に余裕がないってことをもっと強調すべきだったかもしれないけどな」
「それはけっこう言っていたじゃない」
「うん。Tさんももうちょっと客の側に寄り添ってくれればよかったんだけどな」
「コロナでたいへんなときだから売上を確保したいのはわかるけど、やっぱりあのやり方はなかったと思うよ」
強調しておきたいのは、TさんもHさんも悪い人ではないということです。Tさんの会社の評判は口コミなどを見ても「頼んでよかったです」「大満足です」といった感想が目立つし、実際、いい仕事をしているから商売をつづけてこられたはずなのです。Iさんが紹介してくれたのが良質な業者であるという何よりもの証拠です。
ただ、自分たちとは合わなかった。そういうことです。
予定している工事のすべてではなく、予算的に苦しいということをあらためて伝えて、一部だけに変えてもらう。そういう手もあるかもしれないけれど、ここは気持ち的にすべてを白紙に戻す。河岸を変えて仕切り直したい。2人ともそういう気持ちでした。
翌朝、Iさんには妻から、Tさんには筆者から電話をしました。
400万円のリフォーム工事をキャンセルするのです。言いにくくないわけがありません。しかし、ここは気持ちを強く持ってこちらの考えを伝えるほかありません。
Tさんは立派でした。キャンセルを伝える筆者にしつこく食い下がることもなく白紙撤回を了解してくれました。工事はもちろん、まだ物の発注もしていないのでキャンセル料は無料です。400万円の仕事を失注してしまうのだから内心穏やかではないはずですが、「わかりました」と大人の対応をしてくれました。
妻によるとIさんも「承知いたしました」とあっさり了承してくれたとのこと。これでキャンセルに関することは終了。あとは借りていた壁紙のカタログを送り返すくらいです。
電話を終えた筆者の気持ちは晴れ晴れとしていました。妻もでした。
これでリフォームは振り出しに戻った。住宅購入の主導権が自分たちの手に戻ってきた。この2ヶ月近く自分たちの心を占めていた重たい霧が一気に晴れた。そんな感じでした。
タイムリミットは半月とちょっと
気の重い仕事を終えた筆者と妻は電話から離れず、すぐさま次の行動へと移りました。
引き渡しまでは、あと半月とちょっとです。
「リフォームをやめる」の一言から始まったキャンセル劇だったけれど、故障しているトイレの交換などは必ずしなければならないことです。プロパンガスから都市ガスへの転換もしておきたいし、エアコンの取り付けは必須です。
「東京ガスに電話するね」
妻が得意の早業でガス会社に電話をしました。
「月曜日に担当に人から電話がくるって」
「よっしゃ」
「どうする、このあと?」
「もう一度、エアコン見に行こうか。引き渡しのあと、すぐに取り付けた方がいいだろう」
週末の土曜日です。家電量販店に行けばお得な商品に出会えそうな気がしていました。
クルマで近くの家電量販店に向かいました。残念ながら期待していたようなものがなかったのでJRの駅近にある別の店に行ってみました。
「おっ、3台買うと1台半額だって!」
これはいいかも、と店員さんに尋ねてみました。
「1台半額が適用されるのは、こちらの機種を買っていただいたときなんですよ」
店員さんが指差したのは機能満載の高いモデルでした。ようするに、いちばん高値のモデルを売るためのカラクリだったのです。我が家にはそんな高級機種は必要ありません。
「そうですか……残念」
だったら、やっぱりネットかなと思っていると妻が「ねえ、これは」と妻がスマホの画面を見せました。楽天のページでした。Wi-Fi機能付きのモデルが工事費込み5万円そこらで売られていました。
「これにしよう」
「いいよね、3台ともこれで」
妻がポチしました。
帰りの道中、妻は今度は水回りのリフォーム業者を検索しました。
「ここ、評判いいよ。値段もTさんの見積もりより安いんじゃない」
いくつか見つけた業者のうち、妻が目をつけたのは隣の区にある業者でした。売りにしているのは、システムキッチンにトイレに洗面台にバスの水回り4点セット150万円。ただし、これはマンション用なので戸建ての場合はもう少しかかりそうです。それでも相場よりは安いようです。
「さがせばもっと安いところがあるんだけど、この会社は口コミがいいんだよね」
「口コミすれば何かもらえるというやつじゃなくて?」
「そうじゃなくて、純粋にお客さんの方からすすんで口コミしているみたい」
「それはいいね」
少ない予算とはいえ、安かろう悪かろうは避けたいところです。
「アポ入れてみようか」
「入れてみよう」
迷っている暇はありませんでした。
夜、予算について夫婦で話しあいました。
リフォーム工事のキャンセルを決めたとき妻が口にしたのは「200万円でできることをやろう」。200万円という額は、手持ちのお金400万円の半分です。確かに半分残すというのは気持ち的に安心です。
ただ、さすがにいくら切り詰めても200万ではおさまりそうにありません。水回りはできれば一式変えたいし、壁もプロに頼みたい。そこで予算は「なにもかも全部で300万円」を上限にしました。この300万円には引っ越し代なども含まれます。
「どこまでできるか。やるだけやってみよう!」
拳を振っている自分たちがいました。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線で最新トレンドの記事を中心に執筆。