人生最大の買物であり、一大イベントでもある住宅購入。それはあたかもさまざまな関門をクリアしてゴールへと進むRPGのようなものです。とくに購入する物件が中古物件でリフォームが必要な場合、うっかりしているとどこに落とし穴があるかわかりません。引き渡しや登記も済んで、いよいよ我が家を手に入れた夫婦。今回も思わぬハプニングが待っていました。
壁紙のリフォーム。予算はたったの20万円
引っ越しを下旬に控えた7月上旬のその日、約束をしていた八王子のSさんという業者さんが空き家の新居に見積もりに来てくれました。Sさんの工事の特徴、それは壁紙を「張り替える」のではなく「できるだけ塗る」ことです。張り替えるのに比べれば料金は半分かそれ以下、施工時間は3分の1程度で済みます。妻がネットで検索に検索を重ねて見つけた業者さんでした。
やって来たのはSさんと助手を務める20代の娘さんでした。妻は仕事で不在だったので筆者が「どうぞ」と家の奥へと案内すると、リビングの壁を見るなりSさんは「これは……」と絶句しました。あまりの汚れように驚いたようです。
白かった壁は薄墨でも塗ったかのよう。業者さんも顔をひきつらせる汚れっぷりです。
「なんだろう。カビかなあ」
Sさんは壁に近づいて表面をまじまじ見ると「とりあえず全部見せてもらえますか」と振り返りました。
1階、2階、トイレ、脱衣所、クロゼットなどをお見せして、リビングに戻りました。
こちらからの要望は「子供部屋はできればピンクにしたい」というそれだけ。これに対し、Sさんの提案は「1階のLDKはすべて壁紙交換、1階の残り部分と2階は塗りで」というものでした。筆者も妻も「塗りが無理ならば壁紙交換」と考えていたので意外な提案ではありません。
「最初にお問い合わせいただいたときは全部塗りでいけるかなと思ったんですが、これだけ汚れていると上から塗っても汚れが透けて見えてしまうんです」
聞いていて、それはそうだろうな、という感じでした。
見積もりは一度戻ってから見積書を出してくれるとのこと。
「了解です。でも予算が20万しかなくて、なんとかその枠でおさめたいと思っています。なんだったら目につきにくいところは汚れが残って見えてもかまわないので塗りにしてくださって結構です」
無理を承知でお願いしてみると、Sさんは「わかりました」と頷いてくれました。
リフォーム費用は丸投げと比べると150万円以上お得に
翌日の夕方、Sさんから見積もりのメールが届きました。金額は19万6,000円。こちらの要望にしっかりと応えてくれていました。壁紙や壁の塗装はすべて「白」で、子供部屋だけはピンクに塗ってくださるといいます。妻に報告すると「壁紙まで交換してくれるの?」と大喜びです。
工事は7月23~24日の予定。この前後には畳の張り替えやエアコン取り付け工事、ガス工事、窓ガラス交換などの作業が詰まっています。引っ越しの荷造りをしながら工事の立会いもするという忙しい日々になりそうでした。
次の日にはガラス屋のRさんから見積もりのファックスが届きました。こちらはリビングのペアガラス、網戸交換で9万9000円。内訳には職人さんを1人追加した分の人件費も入っていました。見積もりのときに取り外しや取り付けで苦労したので助っ人を呼んだようです。苦戦した様子は間近で見ていたのでこれは納得です。
夜になって妻が電卓をはじきました。
「いまのところ、多めに計算してもリフォームと引っ越しで280万円くらいに収まりそうだよ」
当初の予定に沿って、何も考えずにTさんの会社にリフォームをお願いしていたら、引っ越し代やエアコン購入費などと合わせて430万~460万円かかっていたであろう予算が280万円。比べてみた差額は150万~180万、軽自動車やコンパクトカーが新車で買える金額です。
「やっぱり自分たちで手配してよかったね」
リフォームは手間を惜しまず自分たち主体で進めるのがベスト。あらためて妻と頷きあいました。
庭の草刈りと思わぬ先客
7月第2週の土曜日、この日は水回りの工事業者さんが現場(新居)の養生に来る日です。こちらもそれに合わせて時間を作り、懸案のひとつであった庭の草刈りをすることにしました。
持ち込んだ道具は、この日のためにネットで買っておいた厚手の大型ごみ袋(150ℓ)に、普段から庭の草刈りに使っている鎌やシャベル、ノコギリなど。それに膝まである長靴、蚊対策の長袖シャツに手袋、帽子という出で立ちで草生い茂る庭へと足を踏み込みました。
庭は隅から隅までドクダミや蔦類やその他の雑草に覆われていて、なんともひどい有様です。茎が太いものも多いので、最初からノコギリが大活躍です。ノコギリを挽いているとすぐに汗が噴き出してきました。
鎌を振るい、土を起こし、手で根元から雑草を抜き、慌てて逃げる団子虫を潰さぬようにと気を遣いながら作業を進めるうち、ふとあることに気付きました。
リビングの外の縁側の下にネコがいます。
白い地毛に黒い斑の、なかなかの美猫です。飼い猫なのか、人に慣れているようで逃げる素ぶりを見せません。
驚かさないように作業をつづけていると、頭のなかで何かの信号が点滅しました。信号はすぐに疑問符へと形を変えました。
この猫、なんで逃げないんだろう?
餌が欲しいならニャアニャアとおねだりするはずです。あるいはすり寄ってきて尻尾を当てたりするはずです。筆者は数年前までネコを飼っていたので、そのへんのことはわかります。
しかし、このネコは媚を売ってくるわけではなく、かといって逃げるでもなく、先ほどから縁の下にたたずんで動きません。
もう一度、まじまじとネコを見てみました。
「どうしたの?」
訊いたところで、もちろん答は返ってきません。
ネコの顔は、どことなく困っているように見えました。
これはもしや、と気づいた筆者は立ち上がって、まだ手つかずの雑草の合間に視線を走らせました。
軒下に見つけた小さな命
やっとこさ鈍すぎる勘を働かせた筆者が縁側から少し離れた軒下の草むらの中に見つけたのは、生まれたばかりの子猫たちでした。
1ヶ所に丸くなっている子猫は3匹。どれも茶トラでした。産んだのは縁の下にいる斑の美猫に間違いありません。
「なんてこった……」
思わず呟きました。そして困りました。
「どうしよう」
とりあえず子猫の写真を撮ってネコ好きの妻に送りました。見ると、どの子猫もまだ目が開いていません。本当に生まれたばかりなのです。
それにしても3匹か、ちょっと少なくないか。そう思ってもう一度草むらを覗きこむと、10センチばかり離れたところにもう1匹、黒っぽいキジトラの子猫がいました。全部で4匹です。
親猫に「ごめんね」と詫びました。
脅かすつもりはなかった。こっちはただ草刈りに来ただけなんだ。なにもしないから心配しないで。
とはいえ、ここは自分の家です。このネコたちをどうすればいいのでしょう。
途方に暮れていると、向かいのサ高住(サービス付高齢者住宅)のスタッフの女性から「こんにちは」と声をかけられました。こんなとき話せる相手がいるというのは助かります。
「実はネコがここで子供産んじゃって。でも保健所に電話はしたくないんですよね」
「優しいんですね」と言ってくれた女性に「このへんって野良猫とか外猫とか多いんですか」と訊いてみました。
「けっこう見ますよ」
「そうですか」
2年前まで住んでいた世田谷には外猫はほとんどいませんでした(昔はいっぱいいたけど)。しかし、横浜のこのあたりはまだまだ多いようです。
さて、この子たちをどうしたものか。悩んでも始まらないのでとりあえず離れた場所で作業を続けました。母猫はすでに外敵に子猫の存在を知られてしまったというのに子猫たちに近寄ることもなく、置物のように同じ場所から動きません。威嚇もしてきません。本当はいっときでもこっちがこの場所を離れればいいのでしょうが、やっと確保できた草刈りの時間を削るわけにもいきません。
いざとなったら飼うか。でもいきなり母猫と合わせて5匹なんて無理だ。直すそばから壁をガリガリやられてしまうのがオチだ。だいたい我が家は2歳の娘だけで手一杯なのだ……。
あれこれ悩んでいると、今度は養生の作業をしに水回りの職人さんがやって来ました。職人さんに子猫たちを見せて「現場の工事でこういうことっていままでありましたか?」と訊いてみると「ないですねえ」とのこと。どうもこれは珍事の類のようです。
ごみ袋10個分ほど草を刈ったところでこの日の作業は終了。庭中にはびこっていたドクダミはほとんど残っていません。フェンスを覆っていた草やツルも取り除きました。
雨が降ってきたので、子猫たちを守るように周囲にごみ袋を積み上げました。これで少しの雨風ならしのげるはずです。雨雲の向こうの空に向かって「どうかこの子たちが無事でありますように」と一念し、保育園に娘を迎えに行きました。
中古物件(の庭)生まれのネコたち
お迎えの帰り、家の玄関の灯がつきっぱなしになっていたので消すついでにもう一度庭に行ってみました。すると子猫が茶トラ1匹に減っていました。
親と間違えたのか、筆者の気配にか細い声で「ミャアミャア」と鳴いてみせます。母猫の姿はありません。きっと子猫を1匹ずつくわえて引っ越しの真っ最中なのでしょう。むろん、これ以上の邪魔はしたくありません。この最後の1匹を忘れないでくれよ、と願いながら庭をあとにしました。
翌日も草刈りのつづき。ネコたちは無事引っ越しを済ませていました。庭はひととおり終わり、車庫脇に密集していたドクダミもやっつけて草刈りは一段落です。車庫には刈った草が詰まったごみ袋が11個。これは燃えるゴミの回収日に出します。
気になるのはネコたちのその後です。
引っ越し後、数ヶ月経って新居のまわりで茶トラやキジトラの若い猫を見かけることがありました。どうやら子猫たちは無事に育ったようです。茶トラのうちの1匹は近所の家に拾われたようで可愛がられているところを何度か目にしました。その様子にほっとしました。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線で最新トレンドの記事を中心に執筆。