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もうすぐ節分。豆まきはどうしてするの? 節分の由来とは

「鬼は外」「福は内」と言いながら豆をまく節分。日本人なら誰でも知っている節分ですが、その歴史や由来についてどこまでご存知でしょうか。そもそも節分とはなにか? わかりやすく説明します。

節分は実は年に4回ある

節分といえば2月3日の豆まき。現代の日本人にとって節分は、正月の次に来る大きな年中行事です。しかし、実は節分は年に4回あることをご存知でしょうか。

節分とは、本来、春夏秋冬それぞれの季節が始まる日の前日を指します。クリスマスでいうならクリスマスイブにあたるのが節分なのです。季節の始まりは、暦の上では「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と表します。2024年でいうなら、立春は2月4日、立夏は5月6日、立秋は8月8日、立冬は8月9日となっています。つまり、節分とはその季節の終わりの日、「季節の分かれ目」を意味するものなのです。

もっとも、豆まきをするといった特別な行事があるのは2月の節分のみ。もしかしたら過去には他の節分にもさまざまな行事が催されていたのかもしれませんが、江戸時代頃からは一般的に節分といえば立春の前日を指すようになったといわれています。

昔の人は節分には邪気(鬼)が来ると信じていた

ではなぜ2月の節分だけが特別扱いされるようになったのか。

それは旧暦(太陰太陽暦)に理由があります。新暦では2月のはじめにくる節分ですが、日本でも1873年まで採用していた旧暦では立春は1月とされていました(※まれに12月となる場合もあり)。

当時の人々は元日は暦の上の元日だけでなくそこに近い立春もまた元日と同様のものと見なしていました。立春前日の節分も大晦日と同じような扱いを受けていました。また旧暦を日本にもたらした中国では年の終わりに邪気を追い払う儀式を行っていました。当然ながら、こうした儀式の風習は旧暦とともに日本に渡来しました。

立春前日の節分にあって、他の3つの節分にないもの。それが「新年の年越し」とこの「邪気を払う儀式」でした。これが他との差別化となり、立春前日の節分は、節分のなかでも特別なものと見なされるようになっていったのです。

日本に限らず科学や医療の発展していなかった古代の社会では、季節の変わり目は不吉な気(邪気)を招くと考えられていました。人々はそれを「疫鬼」やたんに「鬼」と呼んでいました。

季節の変わり目、とくに冬の時期というのは風邪や感染症が流行しやすく、よもやそれがウイルスなどというものがもたらすものだとは知らなかった当時の人々が「邪気」と考えるのは無理もないことでした。

もっとも、「疫鬼」「鬼」という未知の生き物にたとえるあたりは、あながち大ハズレでもない感じがします。ワクチンや対症療法を持たない人々がそうした「疫鬼」「鬼」に対抗するには祈ることくらいしかありません。そこで中国や日本では大晦日や節分の宮中行事として前述した邪気を祓う儀式を行っていたのです。

この儀式は「追儺(ついな)」と呼ばれ、『新日本紀』によると日本では奈良時代の慶雲3年(706年)にはじめて執り行われたとされています。この年は日本中に疫病が流行って大勢の人が命を落としたため、朝廷は邪気祓いを行なったとあります。

豆まきが広まったのは室町時代

では、「追儺」ではどんなことが行われていたのでしょうか? 中国では呪術師である方相氏が矛や盾を持って鬼を宮中から追い立て、踊り子たちが鬼を寄せ付けぬための舞踊を舞っていたといいます。日本では禁中に仕えていた大舎人が矛や盾、弓矢で鬼を追い立てたり、陰陽師が鬼を退散させるための祈祷をするなどといったことが行われていました。

他に日本では「土牛童子」と呼ばれる土でつくった牛と童子の人形を大内裏の門に飾ることで邪気を内部に入れずに済むと信じられていました。鬼を追い立てる、忌み嫌うものを内側に入れない、というところはすでに現在の豆まきの原型ができているようにも見えます。この追儺は、「鬼遣(おにやらい)」と呼ばれてもいました。

当初こそ「年越し」の行事であった追儺は、やがて大晦日には行われなくなり、節分の行事となっていきました。

豆まきが始まったのがいつかは定かではありませんが、室町時代頃には節分に豆をまくという日本独特の習慣が武家や公家の間に広まっていたとされています。

当時の辞典である『壒嚢鈔』には、平安時代、都を荒らす鬼を封じ込めるのに鞍馬山の僧侶が大豆を炒り豆にして鬼に投げつけ、その目をつぶしたという逸話が記されています。だとすれば、豆まき自体は平安の世から行われていたという可能性があります。ただ文献に登場するのは室町時代からなので、一般に定着したのはやはりこの時代と考えたほうがいいかもしれません。

それにしてもなぜ豆だったのでしょう。万物に神が宿ると信じていた日本人は五穀のひとつである豆にも神力がついていると考えていました。豆は語呂もよく、人々は鬼の持つ「魔目(まめ)」を「魔滅(まめつ)」させるという意味を込めて豆を撒き始めたのだといいます。

また豆をまく、投げる、打ち付けるといった身体的運動をともなう行為は、いかにも邪気を祓っているという感じがして、そんなところも人々に受け入れられたのかもしれません。

ともあれ、これ以降、鬼に向かって豆をまくことで邪気を追い払うという「節分の豆まき」が始まりました。まいた豆のうち、自分の年齢分、もしくは年齢よりひとつ多い豆を食べると健康にいい、ご利益があるといった風習も、同時か、もしくは豆まきが定着したのに従って生まれたものだと思われます。

各地に伝わるさまざまな節分行事

豆まきは江戸時代には完全に庶民のものとなっていました。

「福は内」「鬼は外」の掛け声も全国に広がりました。ただし、そこは広い日本、地方によって独特の掛け声や風習が生まれていきました。

基本的には「悪」である存在の鬼も、寺社によっては祭神扱いされています。

そうした神社や寺では「鬼は外」ではなく「鬼は内」または「鬼も内」という掛け声が用いられました。

他に、地域に鬼塚や鬼島、鬼頭など苗字に「鬼」が入る人が多く住む地域などでも「鬼は内」「鬼も内」でした。摂津や丹波など、大名家である九鬼氏が領地を持つ地域でも領主を慮って「鬼は内」「鬼も内」の掛け声が使われていました。

なかには千葉県の成田山新勝寺のように「鬼」には触れず、「福は内」だけを掛け声としているお寺もあります。これは本尊の不動明王を前にしては悪い鬼すら心をあらため福となるということを意味しています。

また埼玉県の三峯神社の神事では年男が「鬼は外」「福は内」と叫んだときに、介添人から合いの手として「ごもっともさま」という掛け声が入ります。「ごもっともさま」とはヒノキで作られた擂り粉木棒型の神具で、掛け声の際にはこれが突き出され、豆がまかれます。この「ごもっとも神事」には五穀豊穣、大漁満足、夫婦円満、開運長寿、子授けなどのご利益があるといわれています。

他にも全国にはその土地独自の節分の行事や様式があり、地域の人々に受け継がれています。そうしたもののなかには、家族単位で伝承されているものもあるといいます。

近年は、節分といえば有名人に豆まきをしてもらうことが恒例となっています。コロナ禍で中断などもありましたが、岩手県の中尊寺、千葉県の成田山新勝寺、東京の浅草寺、水天宮、池上本門寺、日枝神社、豊川稲荷東京別院、増上寺、高幡不動尊金剛寺、高尾山薬王院、京都の龍神総宮社、大阪の成田山不動尊、神戸の生田神社などには毎年、芸能人や文化人、大相撲の力士、スポーツ選手など著名人がゲストとして呼ばれています。

福豆は大豆以外に落花生などもある

節分用の福豆は食べるぶんを除くと、不作でよほど食糧に窮しているときはともかく、昔はそのまま捨て置くということも珍しくありませんでした。むろん、捨てるのはもったいないので拾うこともありましたが、それにしても外にまいた場合などはすべてを拾いきるのは難しいことでした。

豆まきに使う豆は炒った大豆が中心。わざわざ炒るのは、まいた豆から芽が出ないようにするためです。鬼を追い払った豆には、旧年の厄がついていると昔の人々は信じていました。もし拾われずに地面に残っている豆から新しい芽(凶事)が出たら困ります。だから豆まき用の福豆はあらかじめ炒って芽が出ないようにしておくのが常識となりました。また多くの地域では炒った豆を神棚に一晩据えてから使っていたといいます。

他にも地方によっては大豆ではなく、土地で採れる別の豆を使っていました。なかでも多いのは落花生で、北海道や福島県、新潟県、宮崎県、鹿児島県などでは「大豆よりも拾いやすい」という理由から使われています。

現代では豆は自分で炒るよりもスーパーなどで売っている節分用の福豆を買うのが当たり前となっています。こうした福豆には鬼のお面がセットでついているものもあったりして、子供のいる世帯には人気となっています。

豆まきというと、桝に入れた豆を「福は内」「鬼は外」と叫びながら、誰かが扮装した鬼に向かって投げる。すると鬼は悲鳴をあげて退散する。
誰もがイメージするのはこうしたコミカルな豆まきでしょう。日本人が家庭や幼稚園や保育園などではじめて体験する節分の豆まきはだいたいこんな感じです。鬼役は家庭なら父親、幼稚園や保育園なら先生です。

ただ、古くから豆をまくのは家の主人の務め。豆まきが始まった頃は鬼を払うのは家長の仕事でした。また年男、年女、厄年の人などが家族にいれば、その人がまくのが慣例でした。そうはいえ、こんな楽しげなことを子供にやらせない手はない。それになにより子供自身がやりたがる。そういうわけで、いつしか豆まきは家族揃ってみんなでまくものとなっていきました。

覚えておきたい豆まきのルール

豆まきにはルールがあります。鬼を追い出すためには窓や戸を開けておく必要があります。よって豆まきの際には家中のドアや襖や窓を開きます(寒かったら、1つだけ開ける、少しだけ開ける、でもOK)。

この時点で、鬼はすでに家の中にいるものとします。もし家族の誰かが鬼役をするなら、家のいちばん奥にあたる部屋に潜むといいでしょう。鬼役がいなくても、鬼はいちばん奥にいると設定してください。そして豆をまく人はそのいちばん奥の部屋から「鬼は外!」と豆をまいてください。

豆をまく際は、野球のようにオーバースローのように投げるのではなく、ソフトボールの投球のように下から投げるのが基本。そのとき、枡は左手で持ち、豆は右手で取って投げます。

いちばん奥の部屋から鬼を追い出したら、廊下へ、隣の部屋へとどんどん豆をまいてまわり、逃げようとする鬼を追い立ててください。最後はドアでも窓でも、外へ通じる場所から鬼を家の外側へと追い払います。

他にも、玄関はもちろん、外に向かって開けている場所があれば豆をまいておきます。終わったらすぐに窓を閉めて鬼が入ってこないようにしましょう。鬼を追い出したいっぽう、福は入ってきています。そこで今度は「福は内!」を叫びながら家のなかにいる福が居つくようにしましょう(「鬼は外」と同時に「福は内」と連呼してもいい)。

時間帯は何時でもOK。古来、鬼は真夜中に襲来するものと考えられていた(大人気漫画『鬼滅の刃』でも鬼は日没後でないと行動できないという設定でした)ので、豆まきも夜遅い時間に行うのがしきたりですが、子供も参加するイベントとなった現代の豆まきはむしろ朝や昼など常識的な時間帯に行うのが当たり前となっています。

豆まきを行事としている寺社や施設以外での家庭での豆まきは、家の中だけにしておくのが無難です。外にまくのであっても、庭など自宅の敷地内に留めておきましょう。昔はそのまま土に返すこともあったという豆ですが、現在はまいた人が拾ったり掃除したりするのが基本。楽しいからといってまき過ぎるとあとでたいへんなことになります。

豆まき以外の節分の行事や厄除け

拾った豆は、無理して年齢の分だけ食べる必要ははありません。子供はともかく、高齢者になると年の数だけで何十個も食べなければなりません。もし他にも余っている豆があったら、それらと一緒にお茶に入れて飲むといいでしょう。

節分の豆を入れたお茶のことは「福茶」といい、縁起のいいものとされています。

年の数(または年齢プラス1粒)だけ豆を入れた福茶は、食べたときと一緒でご利益に授かれます。愛媛県などには、道の四つ角に年齢分の数の豆を誰にも気づかれずに捨てれば厄が落とせるといった言い伝えが伝承されています。

豆まき以外のもので、寺社よく行われているのは「かわらけ割り」。

これはお神酒を飲むのに使ったりしたかわらけ(器)を依り代と見なして叩き割り、厄を落とすといった神事です。茨城県の大杉神社、京都の壬生寺、神戸の海神社など関東以西の寺社で見ることができます。

これ以外でにも、地域によっては豆まきと同時に魔除けを家に飾る習慣が見られます。

なかでも有名なのは、柊の小枝に焼いたイワシの頭を刺した「柊鰯(ひいらぎいわし)」です。柊の葉には棘があり、これを門に飾っておけば鬼が入れないといわれています。鰯もまた焼くとその匂いや煙を鬼が嫌って近づかないとされています。

地域によっては、反対に鬼は鰯の焼く匂いが好きで寄ってくるので、来たところを柊の葉で刺せばいいという伝承も残っています。

平安時代に綴られた『土佐日記』には鰯ではありませんがボラの頭を刺した柊の枝を正月の注連縄に飾っていたという記述があります。これが柊鰯のもととなるものだとすれば、豆まきより古い風習といえます。

こうした厄除け、魔除けのなかでもユニークなのは「節分お化け」です。これは節分の日に普段と違う衣装を着て寺社を参拝するというもの。なぜいつもと違う服なのかといえば、それによって邪気を追い払うことができるからだとも、いつもと格好が違うことで鬼や魔が自分だと気づかないからだともいわれています。

現在では、特別な神事があったり、有名人を招いての豆まきがあったりする寺社を除けば、節分にわざわざそれを目的に寺社に参詣する人は少ないかと思われます。もっとも明治までは恵方詣りといって、その年の恵方にある寺社にお参りに行くという文化がありました。しかしこれは正月の初詣にとってかわられ、いまでは節分の日に恵方詣をする人はそう多くはありません。

意外と新しい「恵方巻」という名

節分には、福豆を食べたり福茶を飲んだりする他に、地域ごとに厄除けのために鰯や鯨を食べたり、麦飯や蕎麦をいただいたりといった習慣があります。

最近、全国的に普及しているのが恵方巻。大阪発祥(諸説あり)の巻き寿司である恵方巻は別名を「丸かぶり寿司」といいます。大衆文化のため、いつ誰が生み出したものなのかは不明ですが、大阪を中心とした一帯では以前から一部でローカルフードとして食べられていたようです。1990年代にはコンビニチェーンが取り扱うようになって西日本に波及。「恵方巻」と呼ばれるようになったのも、この頃のことでした。その後、コンビニやスーパーが本格的に全国展開したことで日本中に広まりました。

恵方巻を食べるのは節分の日の夜です。

恵方(2024年は南南東)に向かって、願い事を心で唱えながら食べ終わるまで一言も発さずに丸かじりして食べると願いが叶うといわれています。

節分は2月3日とは限らない

ここで節分の日にちについて付記しておきたいと思います。

この記事の冒頭で「節分といえば2月3日の豆まき」と述べましたが、正確にはそうではありません。地球の公転周期と暦にはずれがあるため、立春は必ずしも2月4日とは限らないからです。

ご存知の通り、地球は太陽のまわりを360°の円を描く形で公転しています。立春はその軌道上で315°の位置に地球が達したときに訪れます。これを「立春点」といいます。

たいていの場合、地球がこの立春点に達するのは暦の上では2月4日となります。よって2月3日が節分となりますが、そうではない年もあります。

覚えている人も多いでしょう。2024年の節分は2月2日でした。節分が2月3日以外の日となるのは37年ぶり、2月2日となるのは124年ぶりのことでした。この年は地球が立春点に達した日時が2月3日23時59分でした。1分の差で立春が2月3日となったため、節分も2月2日となったのです。

2024年の2月2日の節分が124年ぶりということは、次の2月2日の節分も124年後? 

そう思うかもしれませんが、国立天文台暦計算室によると、この先当分は4年に一度(うるう年の翌年)は2月2日が節分になるといいます。

計算に弱い素人にはなんだかよくわからない話ですが、これは地球の公転周期が正確には365日ではなく365.2422日(365日+6時間弱)であることが関係しています。

この6時間の差が影響し、立春点の通過時刻は時計の上では毎年約6時間遅くなっていきます。

いっぽうで、暦は帳尻合わせのために4年に一度、1日多いうるう年を設けています。

うるう年には、年々約6時間ずつ遅くなっていた立春点通過時刻が、一気に引き戻されます。ただし24時間ぴったりではなく、約45分ほどよけいに引き戻されてしまいます。この結果、うるう年の翌年にあたる2024年の立春は日にちが2月3日に食い込むこととなりました。それに従い、節分も2月2日に移動したのでした。

計算上、21世紀はこの「2月3日が立春で2月2日が節分」というパターンが比較的多くなるとされています。いっぽう、20世紀はというと、逆に4年に一度、「2月5日が立春で2月4日が節分」という日が多くありました。それが1987年を最後に、36年間、「2月4日が立春で2月3日が節分」という期間が続いたため、節分=2月3日というイメージが定着しました。

立春は二十四節気のひとつです。古代中国発祥の二十四節気は地球から見た太陽の通り道である黄道を24分割したもので、季節の変化を知るのに便利な暦です。立夏(5月6頃)も立秋(8月8日頃)も立冬(11月7日頃)もすべて二十四節気に含まれます。春分(3月21日頃)や秋分(9月23日頃)、夏至(6月21日頃)、冬至(12月22日頃)なども二十四節気です。

他に二十四節気には、雨水(2月19日頃)、啓蟄(3月6日頃)、清明(4月5日頃)、穀雨(4月20日頃)、小満(5月21日頃)、芒種(6月6日頃)、小暑(7月7日頃)、大暑(7月23日頃)、処暑(8月23日頃)、白露(9月8日頃)、寒露(10月8日頃)、霜降(10月23日頃)、小雪(11月22日頃)、大雪(12月7日頃)、小寒(1月5日頃)、大寒(1月20日頃)があります。いずれも立春と同じで年によって日にちが変わったりします。
その年の二十四節気が何日なのかを確かめたいときは、国立天文台暦計算室の「暦要項」を見れば正確な日にちを知ることができます。

節分の行事は、もととなった追儺こそ中国で生まれたものですが、1,000年以上の時を経る間に本家の中国では節分の行事は消滅しました。現在では節分の豆まきは世界でも日本だけの年中行事となっています。そういう意味では世界的にもたいへん貴重な文化遺産といえるでしょう。

この冬は新型コロナウイルス感染症に加え、インフルエンザも流行しています。他にも目に見えないウイルスによる感染症が常に社会を脅かしています。普段はやらないという人も、今年は節分に豆まきをして邪気、疫鬼を追い払ってみてはどうでしょう。


文・中野渡淳一

文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線で最新トレンドの記事を中心に執筆。