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天下人はドケチだった? ~徳川家康に学ぶ資産形成術~ その①

大河ドラマ『どうする家康?』の放映もスタートし、なにかと話題になっている徳川家康。260年の天下泰平を築いた天下人は、晩年は日本史上まれに見るほどの資産家になっていたといいます。家康はなぜ政権ばかりでなく財も得たのか。現代にも通用するその資産形成術に注目してみました。

徳川家康ってどんな人?

徳川家康(1542~1616年)は、織田信長、豊臣秀吉と並び、「戦国の三英傑」と呼ばれる武将です。

三河(現・愛知県東半部)の領主であった松平広忠の嫡男として生まれ、幼少期は隣国・尾張の織田家や駿河の今川家で人質生活を送りました。

1560年(永禄3年)、数え19歳(満17歳)のときに桶狭間の戦いが起きて今川義元が敗死すると大名として独立。以後は織田信長と同盟を組み、弱体化した今川家の領内に侵入し、三河に加えて遠江(現・静岡県西部)を自領に加えます。今川家滅亡後は甲斐の武田信玄と敵対。一方では織田信長に協力し、北近江の浅井長政や越前の朝倉義景と戦いました。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて織田信長が死亡すると、同年の武田氏滅亡で織田領となっていた甲斐と信濃に兵を進めてこれを制圧。41歳にして、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5ヶ国の太守となりました。

その後、中央で関白太政大臣になった豊臣秀吉に臣従し、豊臣政権を支える大老の1人となりました。1590年(天正18年)の小田原征伐後は、北条氏が支配していた関東に移封。250万石という、天下人の秀吉(直轄領220万石)すら凌ぐ日本一の大大名の座を得ました。

1598年(慶長3年)、秀吉が没する直前に五大老・五奉行制の筆頭大老となり、同年8月に秀吉が亡くなるとその遺言に従って伏見で政務につきます。

1600年(慶長5年)には、会津の上杉氏を討伐するために東国へ出陣。これが引き金となって敵対勢力である毛利輝元、石田三成らが挙兵、関ヶ原の戦いが勃発します。

この戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)、62歳で江戸に幕府を開闢。自らは初代将軍となりました。

1615年(慶長20年)には大坂に残っていた豊臣家を滅ぼし、翌1616年に75歳で世を去りました。その人生は苦難の連続。亡くなる1年前まで戦場の土を踏むというハードな生涯でした。

当人の遺訓である『東照宮御遺訓』にも、そうした経験から生まれた以下の言葉が記されています。

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくか如し いそくへからず 不自由を常と思へばふそく無し こころに望み起こらば困窮したる時を思ひ出すへし 堪忍ハ無事長久の基 いかりハ敵と思へ 勝事はかり知りて負くる事志らされハ害其身にいたる おのれを責て人をせむるな 及ばざるハ過ぎたるよりまされり(人の一生は重い荷物を背負って遠い道をゆくようなものである。急いではならない。不自由を常と思えば不足もない。心にのぞみが起きれば困窮したときを思い出せ。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知り、負けることを知らなければ害がその身にいたる。おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまさる)慶長九年卯月家康」

慶長9年の卯月(4月)といえば、家康は63歳。前年に幕府を開いて得意の絶頂にあっていいはずのときです。しかし、家康はそれとは逆にこんな言葉を息子や家臣たちに残したのです。性格的なものもあったのでしょうが、「苦労人」であったことは間違いなかったようです。

家康の生涯はどれくらいハードだったのか?

実際、家康はどれくらい苦労人だったのでしょうか。

まず第一に、生まれたのが三河の松平氏だったことが苦労の始まりでした。

三河は強国である尾張の織田と駿河の今川に挟まれており、常に両者に翻弄されていました。

織田と今川は敵同士であり、その間にいる松平氏はどちらとも仲良くとはいきませんでした。

広忠やその父で家康の祖父である清康が選んだのは今川氏。清康は岡崎城を根城に三河統一を進めましたが、織田との戦いのなか、25歳の若さで家臣の裏切りに遭い暗殺されてしまいます。

父の広忠もまた、家康が5歳のとき、24歳で病死します。母親はどうかといえば、実家が織田家についたため、家康が3歳のときに広忠と離縁していました。家康は3歳で母から引き剥がされ、5歳で父を失ってしまったのです。

英傑の素養があったかもしれない祖父は生まれたときにはすでになく、頼みの父も早世。家康自身はというと、6歳(満5歳)のときに今川家の後ろ盾を得るために駿府の人質に出されます。

ところが護送役の戸田康光が裏切って、一緒にいた家臣たちごと敵である織田家に連れて行かれてしまうのです。

本当だったら父母のもと、まがりなりにも城主の御曹司として何不自由なく暮らせたはずだったというのに、弱小大名の家に生まれたばかりに幼くしてこんな危難に遭遇してしまったのです(※ただし、これには異説もあって、広忠が織田勢に岡崎城を落とされたために息子を人質として尾張に送ったのではないかともいわれている)。

家康(当時は幼名の竹千代)は、尾張では熱田にある織田家の家臣の家で暮らしました。2年間の人質生活は、食べるには困らないし、まわりに世話をしてくれる家臣たちがいたとはいえ、精神的に楽なものではなかったはずです。

なにしろ今川と違って織田は敵です。利用価値がなくなるとあれば即座に首を刎ねられるかもしれません。事実、父の広忠は息子を奪われてからも今川とともに織田家と戦い続けていました。恐怖にさらされながら、竹千代少年は毎日を過ごしていたはずです。

『どうする家康』では、この尾張時代に織田信長と相撲をとらされ、いいように投げられている様が描かれています。現実にそんなことがあったのかどうかはわかりません。伝記や物語の多くに描かれているような信長との交流があったのかどうかも知れません。しかし、ドラマの家康が感じた惨めさは、実物の家康が感じたものとそう大差ない気がします。

あっけなく世を去った父の広忠でしたが、その死の半月ほど前に最後の意地を見せます。1549年(天文18年)の2月20日、織田勢と一戦を交えた広忠は、信長の庶兄である織田信広を捕らえます。そして息子の竹千代と交換するという条件で信広を織田家に返します。竹千代はこれによって、今度は駿府に送られたのでした。

流転の若君となった家康は、駿府の今川家で人質となります。

駿府で家康は19歳までの11年間を過ごします。今川家では、一部には蔑む人間もいたようですが、当主の今川義元や周囲の者たちは三河松平家の跡取りである竹千代少年を大事にしてくれました。義元は自分の師でもあった名僧・太原雪斎を竹千代の教育係とし、兵法や書などを学ばせました。

12歳での元服の際には、家康は義元から諱の「元」の字をもらい、「元信」と名乗りました。1557年(弘治3年)には義元の姪である瀬名と結婚しました。こうした事実からも、厚遇されていたことは間違いありません。

とはいえ、やはり人質は人質。このとき、主人のいない岡崎城には今川家の家臣が城代として入り、三河を支配していました。このため家康は墓参で帰郷した際も、自分の城だというのに城代に遠慮して本丸には入りませんでした。義元としては家康を大切には思ってはいても、独立した大名ではなく、あくまでも今川一門の一部将として育てようと考えていたようでした。

いっぽうで家臣の三河武士たちは、いつか家康が松平家の主人として自分たちを束ね、三河を引っ張っていってくれるものと期待していました。まだ十代の家康には、家臣たちの期待はプレッシャーとなったはずです。

トントン拍子かと思いきや大敵襲来

窮屈な人質生活を送っていた少年期の家康でしたが、その後の人生を見ると、今川家で過ごしていた期間というのはまだ牧歌的だったといえます。本当の試練は人質時代のあとに待ちかまえていました。

1560年(永禄3年)5月の桶狭間の戦いで、家康は今川軍の先鋒の一手として、味方の籠もる尾張知多郡の大高城に手勢を率いて兵糧を運びます。そこまではよかったのですが、肝心の大将である義元がまさかの討ち死にを遂げてしまったのです。

このとき今川勢は1万5,000~2万5,000という大軍でした。対する織田勢は2,000そこら。常識的に考えて負ける戦ではありません。なのに、武運つたなく今川勢は大将の首をとられてしまったのです。

今川軍は大混乱で駿河へ潰走。敵中に取り残された家康は、それこそドラマのように「どうする?」と頭を抱えてしまうのです。

それまでの家康は、自分の頭で考えて決断するということがあまりありませんでした。勉学や剣術に励む真面目で優秀な青年でしたが、大事な場面では義元の言うことを「はい」と聞いていればそれでよかったのです。

しかし、このときは自分で判断を下さねばなりませんでした。そして、その判断ひとつで家臣たちの運命も変わってしまうのです。家康が選んだのは、今川軍が放り出した岡崎城への入城でした。これは家康がその人生で打った一生に一度の大博打でした。許可もないのに岡崎城に入れば、あとで今川家から何を言われるかわかりません。

しかし、敗戦のどさくさまぎれに城を乗っ取る、領地を取り戻す、というこの行動は結果的には吉と出ます。これを機に家康は今川家から離れ、独立大名としての道を歩き始めるからです。そして、この、どさくさ紛れに勢力を拡大するという成功体験を、家康はその後の人生でもたびたび繰り返すようになっていくのです。

義元亡きあとの今川家と手切れをした家康は、敵だった織田信長と同盟を結びます。そして後顧の憂いを断つと三河に残る今川家勢力を追い出すべく戦いを始めました。ところが、21歳の若い君主を足元から襲うものがありました。一向一揆でした。半年ほど続いたこの一揆には家臣までが加わり、家康は鎮圧に手を焼くこととなりました。

それでもなんとか一揆を鎮めた家康は、桶狭間の敗戦から立ち直れずにいる今川勢を攻めて三河の統一に成功します。すると、それまで今川とは同盟を結んでいた甲斐の武田信玄が「今川弱し」と見て駿河に兵を向けました。家康はさっそく武田と手を結び、二度目となるどさくさ紛れの勢力拡大をはかります。

今川家は駿河遠江の二国に覇を唱えた名門でしたが、義元という強力なリーダーを失っていたこのときは、武田と松平に挟まれてまともな抵抗ができませんでした。当主の今川氏真(義元の息子)は本拠地の駿府を逃げ出して遠江の掛川城に籠城しますが、家康の軍勢に囲まれて開城。その後は小田原の北条氏に身を寄せるなど、なかば流浪の生活を送ることとなります(のちには家康にも庇護されることとなる)。

家康はというと、武田と話し合って今川領を分割します。このときの取り決めで駿河は武田が、遠江は松平は支配することになりました。家康は27歳にして三河、遠江2ヶ国の太守の座についたのです。また、1566年(永禄9年)には松平姓を徳川姓へとあらためました。

遠江を手に入れたかと思えば、家康は信長に要請されて近江へと兵を出します。相手は浅井、朝倉です。この頃の信長は周囲を敵に囲まれていました。そのため、家康も同盟者としてたびたび信長の戦いに遠征しました。

なんだかここまでは割とトントン拍子といった感じですが、本当の試練はこれからでした。

とうとう武田信玄が牙を剥いたのです。

それまで武田と織田・徳川は友好関係にありましたが、それは表面上のこと。駿河をたいらげた武田信玄は次の標的を家康の遠江領に定め、虎視眈々と狙っていました。信玄は当時、急激に勢力を伸ばしていた信長に対する警戒感もありました。うかうかしていると信長に天下をとられてしまう。そうなる前に西へ兵を進めて織田を討とうというのが信玄の目論見でした。となると、最初に邪魔になるのは国境を接している家康でした。

1572年(元亀3年)、信玄は3万の兵を催して家康のいる遠江・三河へと侵入してきます。対する徳川勢は8,000。信長はというと、ほかの敵と戦うのに精一杯で3,000の援軍を寄越すのがやっとでした。

極度のストレスにさらされていた30代の10年間

武田信玄はこのとき52歳。生涯に72回の合戦に臨んで、負けたのはたったの3回という無敵に近い名将です。かたや家康はまだ31歳。軍勢の数ばかりか経験値においても両者には大人と子供ほどの差があります。家康にあるのは根拠のない空元気と信長への義理、それに勇猛な家臣たちだけでした。

家康は武田軍の侵攻を前に、居城にしていた浜松城に籠っていました。このまま籠城戦かと思ったとき、迫っていた武田軍が突如として方向を変えて浜松から離れようとしているという報告を受けました。家康には、信玄の「びびって城に隠れている若造なんぞ相手にしていられないよ」という笑い声が聞こえたかもしれません。家臣たちも「おのれ信玄め、なめおって」と憤りました。

いまならばその背後を突いての奇襲が可能です。家康の頭にあったのは、ひょっとしたら桶狭間の戦いであったかもしれません。あのとき、信長はたった2,000の軍勢で10倍はあろうかという今川勢を打ち破りました。信長殿にできたのだから自分にもできるはずだ。血気に逸った家康や家臣たちがそう思ったとしても不思議はありません。

武田軍を追いかけて出陣した家康は、高台の台地である三方ヶ原へと兵を進めました。物見の知らせでは、武田軍はここを下って西へと向かっているはずです。3万の大軍とはいえ、細い街道を通っていては兵力を一度に集中することはできません。そこを襲えば勝機はある。敵は慌てふためき、あわよくば、あの上杉謙信ですらとれなかった信玄の首がとれるかもしれません。

が、慌てたのは徳川勢の方でした。三方ヶ原に行ってみると、そこにはいないはずの武田軍が陣形を整えて待ち受けていたのです。

「しまった!」と思ったときはもう遅い。信玄は浜松城から遠ざかると見せかけて、家康をまんまとおびき寄せたのでした。

逃げるにしても敵はすぐ目の前。背を向ければ矢弾が飛んでくるのは明白です。家康に残された選択肢は正面から信玄に決戦を挑むことだけでした。1万1千の徳川・織田軍は急いで敵を包みこむような鶴翼の陣を敷きました。対する武田勢は魚鱗の陣という縦長の陣形。これは敵陣に突撃するのに向いている陣形です。

合戦が始まりました。3倍の敵を相手とした徳川・織田軍はよく戦いましたが、信玄の指揮の下、30年に渡って戦いつづけてきた武田軍の敵ではありませんでした。

陣の薄い徳川・織田軍は2時間あまりの戦いで総崩れとなり、家康は浜松城へと遁走しました。

このときの逸話に、家康は恐怖のあまり脱糞したという話があります。この逸話は三方ヶ原の戦いではなく、その前に起きた一言坂の戦いでのことだという説もありますが、どちらにしても家康は便をもらしてしまうほど武田信玄に恐怖を抱いた。それは間違いないでしょう。

三方ヶ原の戦いは、家康の生涯でただ一度の敗戦でした。このとき家康は家臣や兵約2.000も失ってしまいました。そのなかには織田軍の将である平手汎秀など有力部将も含まれていました。

家康は自らの若気の至りで招いたこの敗戦=失敗をその後の人生の糧としました。遺訓に「勝事はかり知りて負くる事志らされハ害其身にいたる」とあるように、家康は天下人となってもことあるごとにこの負け戦を思い出し、自分を戒めていたのです。

幸運なことに、強敵・武田信玄はほどなくして病に倒れ、陣中に没します。しかし、武田との戦いはその後も続きました。3年後の1575年(天正3年)に起きた長篠の戦いでは織田軍とともに大勝利を収めましたが、武田が滅亡する1582年(天正10年)までの約10年間、家康の頭脳はほぼ対武田戦に費やされていたといって過言ではありません。その間には、密かに武田に通じたという罪で妻の瀬名と嫡男の信康を死に至らしめるという辛い経験もしました(※2人の死については異説もあり)。ビジネスマンでいえば、働き盛りの30代をシェア1位でぐいぐい攻めてくる競合他社との戦いに捧げたようなものです。しかもこの戦いは命がけです。家康の75年の人生のなかでも、おそらくこの10年間はもっともストレスが多い、苦しい時期だったのではないかと思われます。

家康は機を見るに敏だった?

辛く苦しい武田との戦いに終止符を打ったのは信長でした。家康が武田に奪われていた遠江の要衝・高天神城を奪還すると、信長は嫡男の信忠を総大将として甲州征伐の軍を発しました。

これに対して武田方は一部が城に籠もるなどして抵抗しましたが、裏切りが続出して瓦解。当主の武田勝頼も自害して甲斐の名門・武田家は滅亡しました。このとき、家康は恩賞として信長から駿河をもらいました。そして、その礼を言いに信長の安土城を訪ね、饗応を受けたあと、さらに足を伸ばして境の町を見物しました。

「本能寺の変」が起きたのはこのときでした。明智光秀が謀反を起こして信長・信忠父子を討ったという報に家康は仰天しました。わずかな供しか連れていない身では光秀に対抗しようもありません。慌てた家康は明智の目を逃れるように伊賀の山を越えて、からくも伊勢湾に脱出。舟で三河に逃げ帰りました。

浜松で家康は、すぐに兵を挙げました。目的は信長の仇討ちです。そこへ羽柴秀吉が明智を討ったという知らせが届きます。家康が次にとった行動は、甲斐への侵攻でした。

甲斐や信濃、上野などの旧武田領は、武田が滅んだあとは織田家の武将たちが支配していましたが、このときは信長の死を知った武田の遺臣たちが一揆を起こすなどして乱れに乱れていました。そこへ関東の北条氏や越後の上杉氏なども兵を向けてきたため、織田の武将たちは畿内に逃げ出してしまいました。

気がつくと家康の目の前に、甲斐や信濃の沃野が無造作に転がっていました。これを拾わない手はありません。家康は、またまたどさくさ紛れに甲斐へと兵を進めました。

このときは領地がほしいだけではありませんでした。家康は甲斐に侵攻すると、残っていた武田の遺臣団を家臣に召し抱えました。最後はもろくも瓦解してしまった武田軍団ですが、信玄の時代を知る家臣たちはまだ大勢残っています。信玄を尊敬していた家康は、その家臣たちを召抱えて信玄の兵法や領国経営術を我が物としたいと願っていたのです。このへんは企業の経営者が自社の改革をしたり、新規事業を立ち上げるのに、そこに強い他社を従業員ごと吸収合併するのと似ています。

火事場泥棒は今度も成功しました。家康は北条氏と結んで、最小限の力で甲斐と北信を除く信濃の大半を手に入れました。40歳かそこらで、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5ヶ国の大大名に成り上がったのです。しかも、このうちひとつとして単独で強敵を打ち破って手に入れた国はありませんでした。

三河は支配者だった今川が逃げ出したのに便乗して奪還。遠江は武田と組んだ分け前。駿河は信長に協力したご褒美。そして甲斐と信濃は取りたい放題の草刈り場。「どさくさ紛れ」だとか「火事泥棒」だとかと言っていますが、実は家康は機を見るに敏な人物でした。だからこそ、「いまがチャンス」というときに素早く動いて最低限のコストで領国という資産を手に入れてこられたのです。

家康を三英傑の他の2人と比較するのに、よく使われるのが以下の狂句です。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(信長)」
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス(秀吉)」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)」

作者は信長、秀吉、家康の3人をよく見ています。ただし、家康は「鳴くまで待とう」だけではありません。待って待って、チャンスが巡ってきたところで一気に動く敏捷性や決断力を持っていました。家康はそうして天下人へと上り詰めたのでした。天下分け目の合戦といわれている関ヶ原の戦いはそのさいたるものでした。

その②へつづく

文・中野渡淳一

文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ、『最強戦国武将伝 徳川家康』等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線で最新トレンドの記事を中心に執筆。