徳川家康は三河一国を皮切りに、天下をとるまでの間に次々と資産である領地を広げていきました。晩年の総資産は、現代の通貨に換算すると数兆円から数十兆円に及ぶといわれています。現代にも通用する家康の資産形成術を学んでみましょう。
コスパ最優先の家康の領土拡大術
人質生活から戦国大名へ。家康が強敵との戦いという苦難を乗り越えて、40歳にして三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5ヶ国の大大名になったということは前回の記事に書きました。注目すべきは、家康の領土拡張術がけっして力押しばかりではなかったという点です。
家康の盟友である織田信長は、畿内やその周辺を制圧するのに大きな戦闘を繰り返しました。相手が弱かろうが強かろうがとにかく攻める。そのため自軍にも犠牲者が多く出ました。
家康にとって最大の敵だった武田信玄は、北信濃を我が物とするのに川中島で幾度も上杉謙信と干戈を交えました。
それに比べると、家康は小さな合戦は幾度となく行っていますが、その一戦で雌雄を決するような単独での大戦をほどんど経験していません。武田信玄を相手にした三方ヶ原の戦いこそ徳川家が主体となって挑みましたが、この戦いは基本的に防衛戦でした。
このほかの自分から他領を奪いに行く戦いでも、家康は歴史に刻まれるような決戦は行っていません。
戦いはするけれど、最初から勝つと決まっている。あるいは労せずに勝利を得られる。そういう機会が巡ってこない限り、家康は動きませんでした。まさに「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」を地でいっていたのです。
そして、いざチャンスと思ったら一気に動く。しかも自分一人では動かない。遠江のときは武田と、駿河のときは織田と、甲斐・信濃のときは北条と、必ず他のプレーヤーと組んで行動を起こします。その方がコスパがいいし、大きな果実が手に入るからです。
棚から牡丹餅、濡れ手に粟、そういったものを狙っていたかどうかはともかく、家康は人生に幾度かこうした幸運に恵まれ、気がつくと5ヶ国を手に入れていたのです。
稀代の倹約家だった家康
織田信長の絢爛たる安土城、豊臣秀吉の黄金の茶室など、天下人は贅沢を好みます。しかし、家康の生活は信長、秀吉に比べると質素なものでした。
城にしても、江戸城も二条城も、家康が建てた城は信長や秀吉のそれと比べると無骨で派手さに欠けています。家康を祀る日光東照宮はたいそうきらびやかですが、あれは孫である3代将軍・家光がつくったもので、家康自身は金のかかったものは建てるなと遺言していたといいます。
苦労人だった家康は、若い頃から倹約家でした。食事は、その気になれば白米をいくらでも食べられる身分にありながら麦飯を食べ、気遣った家臣が米の飯を出すと「領民たちが苦労しているというのに領主が贅沢をできるか」と顔をしかめたといいます。
着る物にしても同じものを長く着用しました。ふんどしは汚れの目立たない黄色いふんどしをわざわざ考案して使っていたし、古くなった足袋なども捨てずにいつまでも取っておいたというから徹底しています。
あるときは風で厠のちり紙が飛んでしまうのを見て、必死になってそれを追いかけたといいます。その滑稽な様にまわりにいた家臣たちが笑うと「わしはこうして天下を取ったのだ!」と真面目な顔で言い返したといいます。
屋敷などを建てる際も、必要以上に大きな屋敷は建てませんでした。主人がこの調子だから、家臣たちも遠慮して豪華な屋敷を建てることはできませんでした。馬小屋の屋根が壊れたときは、「外の風に当たっている方が馬が丈夫に育つ」と言って、そのままの状態にしておきました。こうなると、もう倹約を通り越してケチと呼んだ方がいいくらいです。
こういう主君だから、釣った魚に餌をやるなとばかりに家臣たちの禄もそこそこといったものでした。
関ヶ原の合戦に勝利すると、家康は一部の例外を除き、敵方の西軍だった大名や日和見を決め込んだ大名たちの領地を容赦なく召し上げました。その総石高は630万石に及びました。家康は、これらの土地をまず自分に味方してくれた福島正則や黒田長政、細川忠興らの東軍諸大名に気前よく分け与えました。福島や黒田や細川はこの恩賞で領地が倍増かそれ以上、なかには池田輝政や山内一豊のように3倍増といった大名もいました。
もちろん、ちゃっかり者の家康は自分でも150万石の直轄領を得ました。もともと持っている250万石に足すと400万石。そればかりか全国の有力な金山や銀山まで自分のものとしたものだから、その財は途方もないものとなりました。有史以来、日本人でここまで金持ちになったのは家康だけです。
家康はこれだけでは飽き足らず、自分の息子をはじめ親族たちに領地を与えて一門大名(親藩大名)を量産しました。
とくに自分の息子である結城秀康(次男)には67万石、松平忠吉(四男)には52万石、武田信吉(五男)には15万石(のちに25万石)と大きな石高を与えています。
加増転封はむろん家臣たちにも及びましたが、いちばん多いの井伊直政の18万石(のちに30万石)で、たいていは1~5万石といったものでした。
奥平信昌は3万石から10万石に加増されましたが、これは信昌の妻が家康の長女だった、つまり娘婿だったからです。井伊直政にしても、娘が家康の四男の忠吉に嫁いでいたことが加増に関係したかもしれません。徳川家の貴公子の岳父が小大名では体裁が悪かったのです。
家康には、井伊直政の他に酒井忠次、本多忠勝、榊原康政という「徳川四天王」と呼ばれた重臣たちがいましたが、このなかでまともな加増にありつけたのは井伊直政のみ。酒井忠次はこのときすでに世を去っていて、酒井家は息子の家次が継いでいましたが加増はありませんでした(4年後に1万3,000石加増)。本多忠勝も関ヶ原の本戦に参加したのに本人に加増はなし(息子の忠朝は5万石を拝領)。榊原康政も加増はいっさいなし。四天王ではありませんが家康の知恵袋であった本多正信も1万石の極小大名のままでした。ケチな家康は、家臣たちにはあまり資産を与えなかったのです。
家康がそのかわりに家臣たちに与えたのは権力でした。家康の重臣や旗本たちは所領こそ少ないものの、江戸城では登城してくる大名たちよりも偉そうにしていました。江戸時代を通して、老中などの幕府の年寄りを務めたのはこうした家臣たちでした。家康は金を与えぬかわりに役職を与えることで家臣たちを満足させ、コスパのいい政権運営を行っていたのです。
家康は趣味も女性の好みも実用的だった
家康にはいくつかの趣味があります。なかでも有名なのは鷹狩りと薬です。山野を駆け巡る鷹狩りは心身の鍛錬になるだけでなく、合戦の予行演習になりました。
また薬学に詳しく、国内外の薬学書を読み耽っては自分で新薬を調合したりしていました。食事が質素な上に薬の知識が豊富で運動もよくしていたのですから、長生きしたのは当然といえます。
家康には、2人の正室を含めて約20人の妻がいました。秀吉が己の出自の卑しさをカバーするかのごとく貴人の女性を何人も側室にしたのと比べると、家康の側室たちは概してそれほど身分が高くはありません。
それよりも家康が重視したのは子が産めるかどうかでした。そのためには体の丈夫な女性を選ぶ必要があります。出産経験があればなお結構。こんな感じで、家康は側室選びすら実用第一でした。おかげで生涯16人の子宝に恵まれました。ライバルであった秀吉が2人(※3人説もあり)しか子をもうけることができなかったことに対し、これは大きなアドバンテージとなりました。
当時は大人であっても寿命が短い時代。家康も関ヶ原の勝利のあと、なにか祟るものでもあったのか、大大名にしてあげた次男の結城秀康と四男の松平忠吉に先立たれてしまいます。
五男の武田信吉も21歳の若さで亡くなりました。長男の信康はすでに故人。六男の忠輝は92歳まで長生きしましたが、父や兄に反抗的だったために嫌われて改易。七男の松千代と八男の仙千代は幼くして病没。家康は気の毒なことに6人の息子に先立たれてしまっているのです。
それでも、子だくさんの家康にはまだ後継者である三男・秀忠がいました。関ヶ原の戦いの直後に生まれた、義直、頼宣、頼房の3人も無事に大人へと成長し、それぞれ尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の徳川御三家の祖となりました。
このように家康は、まるで保険をかけるかのように男子を大勢もうけ、その後の徳川家の繁栄の基礎をつくったのでした。
娘はというと、こちらは3人しかいませんでしたが、そのぶん家臣の娘などを養女にしては他の大名に嫁がせて縁戚関係を結びました。実子である次女の督姫は北条氏に嫁いだのちに池田輝政と再婚。輝政は関ヶ原の戦いでも活躍し、播磨52万石の太守となります。池田家は輝政の息子や弟の所領も含めると約100万石。家康は娘婿の輝政を配置することで西国大名に睨みをきかしたのでした。
天下分け目の関ヶ原の戦いで家康は何をしたか
家康が関ヶ原の戦いに勝利して天下をとったのは誰もが知るとおりです。では、家康は関ヶ原の戦いで何をしたのでしょうか。
刀を抜いたり槍を持ったりして敵と戦った? いやいや、戦国の総大将はそんなことはしません。総大将が自ら槍を持つなどというのは自分のいる本陣に敵が乱入したときくらいです。そんなことになったら戦は負けです。
家康は剣術も馬術も相当な達人でしたが、合戦の場でそれをするのは端武者の仕事であると見なしていました。だから、関ヶ原の本戦では本陣に陣取って指揮に徹していました。その指揮すら、実のところはたいしてとっていなかった可能性があります。
関ヶ原の本戦では各大名はそれぞれの持ち場で勝手に戦っていたので、指揮をとるというよりは戦況を見守っていたというのが本当のところです。
やったことといえば、最初に布陣した桃配山は霧が深くて視界が悪かかったため、陣を前方に移したこと。それに小早川秀秋に裏切りの催促をするのに、小早川の陣に向けて鉄砲を撃たせたことくらいです(※これは実はなかったという説もある)。
しかも、どっしり構えていたかといえばそうでもなく、思っていたより手強かった西軍やふがいない東軍の動きに切歯扼腕し、「チッチッ」と爪を噛んだり、苛立ちのあまり馬の口取りをしている家来を打擲したりといった醜態をさらしていました。
家康どころか徳川勢そのものも奥に布陣していたため、軍監の本多忠勝の手勢が味方を援護するのに前線に出たほかは西軍と直接激突することはありませんでした。
他に、合戦の最初こそ婿の松平忠吉に一番槍の手柄を立てさせようとした井伊直政が忠吉とともに霧に紛れて最前線へと出て鉄砲を撃たせるといったことをしましたが(※偶発説もあり)、直政と忠吉は一度撃つとそれとばかりに引き返してしまいました。この抜け駆け行為に、本来、先鋒を担っていた福島正則は激怒したといいます。これが遺恨となってか、戦いのあと両家は悶着を起こして家康は家臣の1人を切腹させなければなりませんでした。
関ヶ原の本戦で徳川勢がまともに動いたのは合戦の最終盤。西軍で唯一隊伍を乱さずに残っていた島津勢が戦場を脱出しようと正面突破をはかったときでした。徳川勢は目の前を通る島津勢の追撃に移りました。戦の勝敗はすでに決しています。家康の家臣たちにしてみれば、これは手柄を立てる最後の機会でした。島津勢は1,000人かそこらの小勢。追いつけば大将である島津義弘の首がとれるかもしれない。ここでまたも張り切ったのは井伊直政でした。しかし、追撃の先頭を切ったはいいが島津勢の銃撃を受けて負傷。この傷がもとで直政は2年後に他界することとなります。追撃戦では松平忠吉も負傷、本多忠勝は落馬、結局は島津義弘を取り逃がしてしまいます。功を焦るとこういう目に遭うといった感じの幕引きでした。
「戦わずして勝つ」を実践した家康
最後はちょっと情けなかったけれど、結果を見れば家康率いる東軍の大勝利。家康の満足は大きかったはずです。なにしろ家康はこの一戦の勝利のために、ずっと孤独な戦いを続けてきたからです。
家康の戦い、それは主に考えることと手紙を書くことでした。よく知られているように、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋をはじめ西軍の諸将が寝返って東軍は勝利しました。小早川勢のように味方に襲いかかったものもあれば、毛利や長宗我部のように戦いを傍観するだけで動かずにいた部隊もありました。これらほとんどすべては家康や東軍諸大名の調略によるものでした。
家康は彼らを寝返らせるために、また東軍諸将から裏切り者を出さないために、決戦当日にいたるまでせっせと「自分に味方してほしい」という内容の書状をしたためては密使に持たせて諸大名に送りつけていたのです。
家康は筆まめですが、おそらくこの関ヶ原の戦いの前ほどたくさんの手紙を書いたことはなかったのではないでしょうか。相手の心をつなぎとめることができれば、戦わずして勝つことができる。家康はそれを知っていたのです。
孫子も言っているように、戦いは「戦わずして勝つ」ことこそ極意です。戦わずして勝てるなら、手紙など何百でも何千でも書こう。家康はそんな心持ちだったに違いありません。
おかげで徳川勢は深傷を追うことなく勝利しました。中山道を進んでいた秀忠率いる別働隊は真田昌幸・信繁父子の籠もる上田城が落とせず、関ヶ原の本戦には間に合いませんでしたが、おかげで家康は万一の敗戦に備えて3万8,000の軍勢を温存することができました。
豊臣秀吉は、天下を統一するのに強敵を相手に何度も大きな戦いを経験しました。明智光秀を討った山崎の戦い、柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の戦い、家康と対峙した小牧・長久手の戦い、四国征伐に紀州征伐、九州征伐、そして北条氏を討った小田原攻め。天下を手中におさめるや、今度は朝鮮や明を相手に文禄・慶長の役という侵略戦争まで起こしました(※この役で徳川家はうまいこと出兵を免じられている)。
秀吉に比べると、家康はたった1回、決戦の場に立つだけで天下を手に入れてしまったのです。しかも自分は戦わず、仲間に戦わせるという方法で。まったく鮮やかな手並みというほかありません。
「焦らずに待つこと」の大切さを教えてくれる家康の人生
家康が天下をとれたのは、あけすけにいえば秀吉という目の上の瘤がとれたからです。家康と秀吉は5歳差。家康は、秀吉が先に死ねば自分は天下取りに動くだろうということを知っていたはずです。ただ、内心では「わしは天下などいらぬ」とも思っていたのではないでしょうか。
豊臣政権の自分に対する扱いは悪くないし、石高も日本一だし、子供の頃の人質時代を思えば出来過ぎといえるほどの出世ぶりです。これ以上求めたらばちが当たりそうです。
しかし、秀吉は死んでしまいました。家康は動くことを躊躇しませんでした。それまでの秀吉に従順だった態度を一変、筆頭大老でありながら約束事を破りつづけ、自らの派閥を形成し、残りの反徳川派が挙兵せざるを得ないような流れをつくりました。その専横ぶりや強引なやりかたはいま見ても批判の対象となると思います。けれど、このときの家康には我欲だけではない何かが働いていたような気もします。家康がつくった長きに渡る天下泰平の世を考えると、天が家康を選んで天下取りに走らせた、そんなふうにも見えるのです。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康は、時節というのは焦らずに待つことこそ大事だと学びました。そして、その後の人生でもそれを貫きました。
物事は機が熟するまでの間は、己を磨きながらひたすら待つ。そしてここというときには一気に動く。動くのだけれど、けっして無理はせず、なるべく自分の力は使わずに事をなす。いまの時代に家康がいたら、やはり大資産家になっていたはずです。投資なども一世一代の大勝負などは絶対にしない。きっと普段はコツコツと続け、気がつけばなにもしなくても資産が増えていく、そういったシステムを築くことでしょう。
信長や秀吉に比べてドラマチック性は欠けるかもしれないけれど、信長、秀吉、家康の三英傑で、現代人がお手本とすべきはやはり家康といえます。
文・中野渡淳一
文筆業者。著書に『怪しいガイドブック~トラベルライター世界あちこち沈没記』『漫画家誕生 169人の漫画道』。この他「仲野ワタリ」名義で『海の上の美容室』「猫の神さま」シリーズ、『最強戦国武将伝 徳川家康』等小説作品多数。『moneyscience』では生活者目線で最新トレンドの記事を中心に執筆。